春秋左傳事類始末邾人、翼に城き武城人邾師を取る(邾人城翼武城人取邾師)

武城の人々が邾軍を計略で捕らえたことに端を発し、晋が魯を咎めて叔孫婼を抑留する外交紛争となったが、士弥牟の仲裁で叔孫は身を全うして帰国した2年間の出来事。

年表(2件)

魯昭公二十三年(前519年)

  • 邾人が翼に城を築き、離姑から引き揚げる途中、武城の人々は前方の道を塞ぎ、後方の木を伐り倒す寸前で止めておいた。邾の軍が通りかかると木を押し倒して足止めし、そのまま邾軍を捕らえた。
  • 邾人はこれを晋に訴え、晋人は魯を責めるため使者を送った。叔孫婼(昭子)が晋へ赴くと、晋人は彼を捕らえ、邾の大夫と対座させようとした。叔孫は「列国の卿が小国の君と同席するのは、それこそ周の制度に反する。まして邾は夷にすぎない。我が君の命は介(副使)の子服回に託してある、彼に対応させてほしい」と抗弁し、結局対座は行われなかった。
  • 韓宣子(韓起)は邾人にその軍勢を集めさせ、叔孫を彼らに引き渡そうとした。叔孫はこれを聞き、供の者と武装を退けて単身で出頭した。士弥牟(士伯)は韓宣子に「あなたがよく考えずに叔孫を仇敵に渡せば、叔孫は必ず死を選び、魯は滅び、叔孫を殺せば邾も滅ぼされよう。邾の君主が国を失えばどこへ帰ろうか。盟主とは背信を討つ立場のはずだ。互いに相手を捕らえ合うようでは盟主の意味がない」と諫めた。
  • 結局、双方は別々の館に留め置かれることとなった。士伯は双方の言い分を聞いて韓宣子に報告した。士伯は叔孫の従者四人を連れて役所へ向かう途中、先に邾子を帰した。士伯は叔孫に「刈り取りの争いのようなこの一件で従者たちも疲れただろうから、あなたを都に留めておく」と伝え、叔孫は翌朝には期日を定められ、箕の宿舎に留められた。子服昭伯は別の邑に置かれた。
  • 范献子(士鞅)は叔孫に賄賂を求め、冠を求めさせてその冠の作り方(型)を取った上で二つの冠を与え、「これで全部です」と言った。叔孫のために申豊が財貨を持って晋へ赴いた際、叔孫は「私に会いに来れば、どこへ賄賂を渡せばよいか教えよう」と告げた。
  • 箕で叔孫と共に暮らしていた役人が、飼い犬をほしがったが与えられず、帰国が決まってから犬を殺してその肉を振る舞われたという話が伝わっている。叔孫は宿舎を去る際、たとえ一日しか住まなかった所でも、必ず壁や屋根を修繕し、来た時と同じ状態にしてから立ち去った。

魯昭公二十四年(前518年)

  • 士弥牟が箕へ叔孫を迎えに来た。叔孫は梁其踁を門の内側で待たせ、「私が左を顧みて頷いたら殺せ、右を顧みて笑ったらやめよ」と密かに指示した。士伯は「我が君は盟主としての立場ゆえこれまで日を要した。粗末ながら敝邑の礼を尽くしたく、彌牟に従者を出迎えさせた」と述べ、叔孫は礼を受けて帰国した。