春秋左傳事類始末宋の華向の乱(宋華向之亂)
宋の華氏・向氏一族が元公との対立から公子を殺害・監禁して叛乱を起こし、諸侯の援軍を経て楚への亡命に至るまでの3年間。あわせて同時期に衛で起きた斉豹・北宮喜・褚師圃・公子朝による公孟縶暗殺と衛侯出奔の政変も収める。
年表(4件)
- 魯昭公二十年(前522年)宋の寺人柳の讒言を機に華亥が公子らを殺害・監禁し叛乱
- 魯昭公二十一年(前521年)華費遂の子貙らが多僚を殺し華・向氏が盧門に拠って叛く
- 魯昭公二十二年(前520年)楚の勧めで華亥・向寧ら華氏一族が楚へ亡命
- 魯昭公二十年(前522年) 衛の政変(斉豹・北宮喜・褚師圃・公子朝の乱)齊豹らが公孟縶を殺害、衛侯は出奔し北宮喜と盟う
魯昭公二十年(前522年)
- 宋の寺人・栁は太子佐に寵愛されたが、太子佐はこれを憎んでいた。華合比が「栁を殺そう」と言うのを栁が聞きつけ、偽って盟誓の文を土中に埋め、宋公に「合比は亡命者の一族を国に迎え入れようとし、すでに北郭で盟約を結んでいる」と讒言した。これを利用して華亥は右師の地位を奪おうとし、公は合比を退けて左師(向寧)に会わせた。左師は「お前は必ず身を滅ぼす、宗室を軽んじる者は人からも軽んじられる、詩に『宗子は城なり、城を崩してはならぬ、独りを恐れよ』とあるとおり、お前も恐れるべきだ」と述べた。
- 宋の華定が魯へ聘問に訪れ饗応を受けた際、『蓼蕭』の詩を賦されたがその意味を解さず、答賦もしなかった。昭子(叔孫婼)は「これでは必ず身を滅ぼす、宴席の言葉を心に留めず、寵光を表さず、令徳を知らず、共に福を受けようともしない、これでどうして地位を保てようか」と評した。
- 春正月己丑、冬至の日、梓慎は雲気を望み「今年宋に乱があり国はほとんど滅びかけるが、三年後には治まる。蔡には大きな喪がある」と占い、叔孫昭子は「それは戴公・桓公の子孫(華氏・向氏)のことだろう、驕り高ぶって礼を失うこと甚だしく、乱の因はそこにある」と評した。
- 宋の元公は信義に乏しく私心が多く、華氏・向氏を憎んでいた。華亥・華定・向寧は「滅びるより先に手を打とう」と謀り、華亥は仮病を使って見舞いに来た公子たちを次々と捕らえ、六月丙申、公子寅・御戎・朱・固、公孫援・公孫丁を殺害し、向勝・向行を穀倉に監禁した。宋公が釈放を求めても華氏は応じず、逆に公を脅迫した。癸卯、公は太子欒・その母弟の辰・公子地を人質に取られ、公も華亥の子・無慼、向寧の子・羅、華定の子・啓を人質に取って盟を結んだ。
- 秋、公子城・公孫忌・楽舎・司馬彊・向宜・向鄭・楚建・郳申らは鄭へ亡命し、その部下たちは鬼閻で華氏と戦って敗れた。公子城は晋へ逃れた。公は華費遂に華氏攻撃を求めたが、費遂は「命に背けば禍を大きくするだけです、恐れながらお受けするしかありません」と応じ、公は「お前の子が死のうと生きようと天命だ、恨みには思わぬ」と述べた。十月、公は人質に取っていた華・向の子らを殺して華氏を攻めた。戊辰、華向は陳へ、華登は呉へ亡命した。向寧は太子を殺そうとしたが、華亥は「君に背いて逃げた上にその子まで殺せば、誰が我らを受け入れよう、むしろ送り返すべきだ」と述べ、少司寇の牼に太子を送還させた。太子が入城した後、華牼が門から出ようとすると、公はその手を取り「お前に罪がないことは分かっている、戻って元の地位につくがよい」と述べた。
魯昭公二十一年(前521年)
- 華費遂の子・貙と多僚は不仲で、多僚は「貙が亡命者を国内に呼び戻そうとしている」と公に讒言した。公が「司馬(費遂)はすでに良い子(登)を亡命させ苦しんでいる、これ以上その一族を滅ぼすには忍びない」と躊躇すると、多僚は「司馬を大切に思うなら、いっそ滅ぼしておくべきです」と迫った。公は恐れて司馬の側近・宜僚を召し伝えさせると、費遂は「多僚の仕業に違いない、讒言する子を殺すこともできず、さりとて死ぬこともできぬ、しかし君命とあらば仕方あるまい」と嘆き、公と謀って華貙を田猟に誘い出して追放しようとした。公は酒宴を設けて貙とその従者を厚くもてなし、司馬にも同様に接した。しかし張匄はこれを不服とし、子皮に命じて宜僚を剣で問い詰めさせ、宜僚は事の顛末をすべて張匄に語った。張匄・子皮・臼任・鄭翩は多僚を殺し、司馬を脅して叛乱を起こし、亡命者を呼び戻した。
- 五月壬寅、華氏・向氏が入城し、楽大心・豐愆・華牼がこれを横で防いだ。華氏は盧門に拠り南里を占拠して叛いた。宋は旧鄘城と桑林の門を修築して守りを固めた。
- 冬十月、華登は呉の援軍を得て華氏を救おうとした。斉の烏枝鳴とともに守る宋の厨人・濮は「兵法に、先んじて敵の戦意を奪い、後手なら敵の疲れを待つとある、今討てば敵が態勢を整える前に叩ける、入城を許せば華氏はさらに勢いを増す」と進言し、丙寅の日、斉・宋の連合軍は鴻口で呉軍を破り二将(公子若雂・偃州貟)を捕らえたが、華登は残兵を率いて宋軍を破り返した。公が出撃しようとすると濮は「私のような小人が身代わりに死ぬことはできても、逃げる君を見送るわけにはいかない、しばらくお待ちを」と諫め、旗印を掲げて公の軍勢を集めた。公は揚門から自ら兵を巡視し「国が滅び君が死ねば皆の恥だ、私一人の罪ではない」と鼓舞した。斉の烏枝鳴は「兵が少ない以上、死を決して戦うほかない、それには重装備を捨て剣のみで挑むべきだ」と述べ、これに従った。華氏は敗走し、厨人・濮は敵将の首を裳で包んで担ぎ「華登を討ち取ったぞ」と叫び、華氏は新里で大敗した。
- 十一月癸未、公子城が晋の援軍を率いて到着し、曹の翰胡が晋の荀呉・斉の苑何忌・衛の公子朝と会して宋を救援した。丙戌、華氏と赭丘で戦い大いに破って南里に包囲した。華貙は華登を楚へ遣って援軍を乞い、楚の薳越が軍を率いて華氏を迎えに向かった。
魯昭公二十二年(前520年)
- 楚の薳越は宋に使者を送り、「我が君は貴国に不忠の臣がいて君の憂いとなっていると聞き、宗族の恥として、その者たちを引き取って誅殺したい」と伝えた。宋公は「私は不才で骨肉の情に流され君の憂いとなってしまったが、あえてその厚意をお受けする。ただし君臣が日々戦っているこの状況で援軍が反乱者を助けるなら、それも天命に従うほかない。乱の門を通り過ぎるべきでないという言葉もある、もし我が国を恵み保ってくれるなら、不当に乱を助長せぬことこそ望むところだ」と答えた。楚人はこれに困惑し、諸侯の守備隊は「華氏が窮して決死の覚悟なら、楚が功なく激戦するのは利益にならない、いっそ彼らを国外に出して楚の功とすれば、もはや害はない、宋を救いつつ禍根を除ければそれでよい」と話し合い、強く亡命を勧めた。宋もこれに従い、己巳の日、華亥・向寧・華定・華貙・華登・皇奄傷・省臧・士平は楚へ亡命した。宋公は公孫忌を大司馬、辺卭を大司徒、楽祁を司城、仲幾を左師、楽大心を右師、楽輓を大司寇に任じて国内を鎮めた。
魯昭公二十年(前522年) 衛の政変(斉豹・北宮喜・褚師圃・公子朝の乱)
- 衛の公孟縶(霊公の兄)は齊豹を軽んじ、司寇の地位を奪って、鄄への出兵があれば返還し、なければ取り上げるという扱いをした。公孟は北宮喜・褚師圃も嫌い排除しようとしていた。公子朝は襄夫人・宣姜と密通しており、発覚を恐れて乱を企てた。こうして齊豹・北宮喜・褚師圃・公子朝が結託して反乱を起こすこととなった。
- 以前、齊豹は宗魯を公孟の驂乗(陪乗の護衛)として推挙していたが、乱を起こすにあたり「公孟の不徳はお前も知るところ、お前は同乗をやめよ、私は彼を殺すつもりだ」と告げた。宗魯は「私はあなたの縁で公孟に仕えている、彼の不徳は承知の上だが、それでも利のために離れられなかったのは私の過ちだ、今になって難を聞いて逃げれば、それはあなたを裏切ることになる、あなたは事を行え、私は忠義を尽くして死のう」と答えた。
- 丙辰の日、公孟が蓋獲の門外で祭事を行った際、齊氏は門外に幕を張って伏兵を潜ませ、祝鼃に車の薪の中に戈を隠させて門を守らせ、公孟には一台の車をつけて出させた。華齊が公孟の御者、宗魯が驂乗として閎中まで来たところ、齊氏の伏兵が戈で公孟を襲い、宗魯は自らの背で公孟をかばったが腕を斬られ、公孟も肩を刺され、二人とも殺された。
- 一方、慶比が衛侯の車を御し、公南楚が驂乗、華寅は副車に宝物を積んで随行していたが、齊氏の伏兵に遭遇し、華寅が肌脱ぎになって蓋を掲げ守りにあたったところ、齊氏が矢を放ち公南楚の背に命中させたが、衛侯自身は脱出して死鳥という地に逃れた。
- 析朱鉏は夜、下水道から抜け出て徒歩で衛侯に従った。斉侯は公孫青を衛への聘問に遣わしていたが、途中で衛の内乱を知り、死鳥まで衛侯を追った。衛侯は使命を遂げるよう求めたが、公孫青は「亡命の身にある君主に外国の使者としての礼を尽くさせるわけにはいかない」と辞退した。衛侯側が「主君が先君のよしみを慮り社稷を鎮撫してくださるなら、宗廟は存続する」と述べて留めたため、公孫青はとどまった。衛侯は重ねて引見を求めたが応じられず、公孫青は良馬を献じて未だ正式な使命を果たしていないことを示した。衛侯はこれを乗馬として受け取ろうとしたが、公孫青は「亡命者の憂いに巻き込むべきではない、荒野で従者に礼を尽くさせるには及ばない」と辞退した。しかし「私は貴国の下僕、もし外の役目を果たせなければ我が君を蔑ろにすることになる、咎めを免れぬことを恐れる」と述べ、自ら鐸を執って夜通し篝火の番についた。
- 齊氏の家宰・渠子が北宮子(喜)を呼び寄せようとしたが、北宮氏の家宰はこの謀に与せず渠子を殺し、齊氏を攻めてこれを滅ぼした。丁巳の晦日、衛侯は入城し北宮喜と彭水のほとりで盟を結んだ。秋七月戊午朔、国人とも盟を結んだ。八月辛亥、公子朝・褚師圃・子玉宵・子髙魴は晋へ亡命した。閏月戊辰、宣姜を誅殺した。衛侯は北宮喜に貞子の諡を、析朱鉏に成子の諡を賜り、齊氏の墓地を与えた。衛侯は斉に無事を告げ、公孫青(子石)の功を伝えた。斉侯が酒宴を開き大夫たちに広く恩賞を与えようとして「これは皆の教化のおかげだ」と述べると、苑何忌は「公孫青への恩賞に与れば、その罰にも連座することになりましょう。『康誥』に父子兄弟であっても罪は互いに及ばぬとあります、まして群臣においてはなおさらです、先王の教えに背いてまで君の賜りを貪ることはできません」と辞退した。
- 琴張は宗魯の死を聞いて弔問に行こうとしたが、孔子は「齊豹の賊であり公孟縶の仲間として死んだ者を、なぜ弔うのか。君子は不義の食を受けず、乱に与せず、不当な利で心を煩わせず、邪な基準で人を計らず、不義を覆い隠さず、非礼を犯さないものだ」と諫めた。