春秋左傳事類始末呉、伍員の謀を用い楚始めて病む(呉用伍員之謀楚始病)
費無極の讒言で楚の太子建とその師伍奢一族が追われ、逃れた伍員(伍子胥)が呉に仕えて楚討伐を進めるまでの長い抗争を描く。柏挙の戦いで呉は楚都郢を陥落させるが、申包胥が秦の援軍を得て楚を再興し、以後も呉楚の攻防と蔡の遷都が続く、魯昭公十九年から哀公四年に至る三十年余りの経緯。
年表(16件)
- 魯昭公十九年(前523年)費無極の讒言で太子建は宋へ、伍奢は捕らえられ王への諫言も退けられる
- 魯昭公二十年(前522年)伍奢父子が殺され、伍員は呉へ亡命し楚討伐を説くも公子光は動かず
- 魯昭公二十三年(前519年)沈尹戌が郢の築城に頼る守りの縮小を批判し楚の衰亡を予見
- 魯昭公二十四年(前518年)楚の水軍侵攻が失敗し呉の反撃で巣・鍾離を失う
- 魯昭公二十六年(前516年)楚の平王が没する
- 魯昭公二十七年(前515年)公子光が王僚を弑して自立(闔廬)、二公子は楚へ亡命
- 魯昭公三十年(前512年)呉が徐を滅ぼし、伍員の献策で楚を疲弊させる策を開始
- 魯昭公三十一年(前511年)呉が楚辺境を攻め、史墨が六年後の郢陥落を予言
- 魯定公二年(前508年)呉が偽計で楚軍を誘い豫章で破り巣を陥落させる
- 魯定公三年(前507年)佩玉・名馬を巡る楚の令尹子常の強欲で蔡侯・唐侯が抑留される
- 魯定公四年(前506年)柏挙の戦いで呉が楚軍を大破し郢に入城、昭王は逃亡
- 魯定公五年(前505年)申包胥が得た秦の援軍で楚が呉を破り、昭王が郢に帰還
- 魯定公六年(前504年)呉が楚水軍を破るも楚は令尹子西の下で鄀に遷都し立て直す
- 魯哀公元年(前494年)楚が柏挙の報復に蔡を包囲、蔡は江汝間への移住に同意
- 魯哀公二年(前493年)呉が計略で蔡に入城、蔡侯は州来へ遷都する
- 魯哀公四年(前491年)蔡の昭侯が遷都を恐れる大夫に殺され、文之鍇が仇の公孫翩を討つ
魯昭公十九年(前523年)
- 楚の平王は蔡にいたとき鄖陽の封人の娘と通じ、太子建をもうけた。即位後、伍奢を太子の師、費無極を少師としたが、無極は太子に寵愛されず、王に讒言を企てた。太子の妻に秦の女を迎える話が進むと、無極は自ら秦へ赴いて婚儀を進め、逆にその秦女を王自身に娶らせるよう勧めた。正月、その秦の夫人・嬴氏が楚に至った。夏、王は水軍を興して濮を伐とうとしたが、無極は「晋が覇者たりうるのは中原に近いからで、楚は僻地ゆえ争えない。城父を大城として太子を置き、北方に通じさせれば、王は南方を治めて天下を得られる」と進言し、王はこれに従い、太子建は城父に居することとなった。
魯昭公二十年(前522年)
- 費無極はさらに、太子建と伍奢が方城の外で斉・晋の後押しを得て叛こうとしていると讒言した。王が伍奢を問い詰めると、伍奢はかえって讒言を信じる王を諫めた。王は伍奢を捕らえ、城父の司馬・奮揚に太子殺害を命じたが、奮揚は事前に太子へ知らせて逃がし、太子は宋へ亡命した。王に召還を問い詰められた奮揚は、当初の命令に背けなかった経緯を正直に述べ、罰を恐れず自ら出頭したことで、かえって旧職に復せられた。
- 無極は「伍奢の子らが呉に逃れれば楚の憂いとなる、父を人質に召し出せば、仁である兄は来るだろう」と進言し、王は伍奢の子・棠君尚(兄)と員(伍子胥、弟)を召した。兄の尚は弟の員に「お前は呉へ逃れよ、私は戻って父と共に死ぬ」と告げ、孝・仁・知・勇の道理を説いて別れた。尚は帰国し、伍奢は員が来ないと知って「楚の君臣はやがて苦しむことになろう」と述べた。楚は伍奢・尚を殺した。
- 員(伍子胥)は呉へ逃れ、呉の公子光(後の闔廬)に楚討伐の利を説いたが、光は員が一族の讎討ちのために利用しようとしていると見て従わなかった。員は光に別の野心(王位簒奪の意図)があると察し、刺客・鱄設諸を推挙したのち、自らは身を退いて田舎で耕作した。
魯昭公二十三年(前519年)
- 楚の令尹・囊瓦(子常)が郢の城壁を築くと、沈尹戌はこれを批判し、「古来、天子の守りは四夷に、諸侯の守りは隣国との関係にあり、辺境と外交を固めれば都に籠る必要はない。今、呉を恐れて郢だけを固めるのは、守りがすでに縮小した証であり、滅亡は免れまい」と述べた。梁伯が宮殿の周りに堀を巡らせて民の信を失い滅んだ故事を引き、辺境の整備・農政・防備・外交の誠実さこそ肝要であると説き、代々の楚王が国土を広げても辺境の守りに徹してきたことに比べ、今わずかな国土で郢だけを固めるのは道理に反すると論じた。
魯昭公二十四年(前518年)
- 楚王は水軍を興して呉の辺境を侵したが、沈尹戌は「民を労するばかりで安撫せず、かえって呉の反撃を招く。辺境の備えもない今、諸邑を失うだろう」と予言した。王は圉陽で引き返したが、呉軍が追撃し、辺境の守りが薄かったため巣と鍾離を滅ぼして退いた。沈尹戌は「これが郢滅亡の始まりだ。王の一動で二つの将帥を失った、この調子ではやがて郢にまで及ぶだろう」と嘆いた。
魯昭公二十六年(前516年)
- 九月、楚の平王が没した。
魯昭公二十七年(前515年)
- 楚の喪に乗じ、呉王は公子掩餘・燭庸に軍を率いて潜を包囲させた。その間に呉の公子光は鱄設諸に命じて王(僚)を弑逆し自立した(闔廬)。国元を失った掩餘は徐へ、燭庸は鍾吾へそれぞれ亡命した。
魯昭公三十年(前512年)
- 呉王闔廬は徐の人に掩餘を、鍾吾の人に燭庸をそれぞれ捕らえさせようとしたが、二公子は楚へ亡命した。楚王は厚く封じ、莠尹然・沈尹戌に城父・胡の田を割いて彼らの拠点を築かせ、呉への牽制とした。子西はこれを諫め、「呉の光(闔廬)は国を得たばかりで民を愛しており、いま呉の讐を強めて怒らせるのは危うい。呉は周の後裔ながら海辺に取り残されてきたが、今や中原に並ぶ勢いを見せている。天がこれを滅ぼすつもりか、それとも祚を与えるつもりか分からぬ以上、我らは鬼神を鎮め一族の安寧を図るべきで、みずから禍を招くには及ばない」と説いたが、王は聞き入れなかった。呉王は怒り、冬十二月に鍾吾の君を捕らえ、続いて徐を攻めて防山の水を決壊させ、己卯の日に徐を滅ぼした。
- 呉王は伍員(子胥)に「以前は楚討伐に踏み切れなかったが、今は自ら手柄を得たい、いかにすべきか」と問うた。子胥は「楚の執政は人数が多く不和で、責任を負う者がいない。三軍に分けて交代で攻めれば、楚は疲弊し道が乱れる。多方から欺いて疲れさせた後、三軍まとめて攻めれば大勝できる」と献策し、闔廬はこれに従った。楚はこれより疲弊し始めた。
魯昭公三十一年(前511年)
- 秋、呉は楚に侵入し、夷を攻め潜・六を侵した。沈尹戌が潜を救援すると呉軍は退き、楚は潜の民を南岡へ移して撤退した。呉が弦を包囲すると、楚の左司馬戌・右司馬稽が弦・豫章を救援し、呉軍は撤退した。これが子胥の策の初適用であった。
- 十二月朔(辛亥)に日食があり、その夜、晋の趙簡子は裸の童子が歌いながら回る夢を見た。史官・史墨に占わせると、「六年後のこの月、呉は郢に入るだろうが、最終的には郢を保てまい」と告げた。
魯定公二年(前508年)
- 桐が楚に叛いた。呉王は舒鳩氏に楚を誘わせ、「楚が兵を進めれば、我らが桐を討ってやる」と偽りの約束をさせた。秋、楚の囊瓦が豫章で呉軍を攻めたが、呉は豫章に船を見せかけて陽動し、実際の軍は巣に潜ませていた。冬、呉軍は豫章で楚軍を破り、そのまま巣を包囲して陥落させた。
魯定公三年(前507年)
- 蔡の昭侯は二対の佩玉と裘を作り、一組を楚の昭王に献上した。王がこれを着て蔡侯を饗すと、蔡侯も残る一組を着けた。楚の令尹・子常(囊瓦)がこれを欲しがったが与えられず、蔡侯を三年間抑留した。同様に、唐の成公が持つ名馬二頭を子常が欲したが与えられず、成公も三年抑留された。唐の従者たちは策を用いて馬を盗み子常に献じ、成公は解放された。成公は自らを咎めて刑を受けようとしたが、従者らが罪を引き受けて賞された。これを聞いた蔡の人々も佩玉を子常に献じるよう強く求め、蔡侯はついに献上したが、子常は蔡侯の長い抑留を役人の怠慢のせいにして叱責した。
- 蔡侯は帰国の途上、漢水を渡る際に玉を沈めて「二度と漢水を渡って南(楚)へは行かぬ」と誓い、晋に赴いて子の元と大夫の子らを人質に差し出し、楚討伐を求めた。
魯定公四年(前506年)
- 魯の定公は劉子・晋侯・宋公・蔡侯・衛侯・陳子・鄭伯ら諸侯と召陵に会し、楚討伐を謀った。晋の荀寅が蔡侯に賄賂を求めて得られず、范献子に「国内も諸侯も不安定な中で敵を襲うのは難しい、中山も服さぬ今、盟約を破って恨みを買うより、蔡侯を断るべきだ」と進言し、結局楚討伐は見送られた。沈国が召陵の会に参じなかったため、晋は蔡に沈を討たせ、夏に蔡は沈を滅ぼした。秋、楚は沈の仇として蔡を包囲した。
- 楚から亡命していた伍員(子胥)は呉の外交官として楚討伐を謀り、また楚の郤宛誅殺で一族を追われた伯州犂の孫・伯嚭も呉の太宰として楚討伐に加わった。楚の昭王即位以来、毎年のように呉の侵攻を受けていた。蔡侯はこれに乗じ、子の乾と大夫の子らを人質に呉へ送った。
- 冬、蔡侯・呉王・唐侯は連合して楚を伐ち、淮水のほとりに船を留めて豫章から楚と漢水を挟んで対峙した。楚の左司馬・戌は令尹の子常に、漢水沿いに敵と対峙しつつ方城外の兵で敵の船を毀し要衝を塞ぎ、渡河してくる敵を挟撃する策を進言し、両者は合意した。しかし武城黒は「呉は木造の船、我らは革の楯、長期戦は不利、速戦すべき」と主張し、史皇も「楚人は子常を憎み司馬を慕っている、司馬が単独で勝てば子常の名は立たぬ、速戦せよ」と説いたため、子常は漢水を渡って布陣した。
- 小别・大别を経て三戦し、子常は勝てぬと悟って逃げようとしたが、史皇に諫められ死を決した。十一月庚午、両軍は柏挙に対陣し、闔廬の弟・夫槩王は独断で「子常は不仁で兵に死を決する者がいない、先制すれば必ず崩れる」と五千の兵で子常の軍を急襲、楚軍は総崩れとなり、呉軍は大勝した。子常は鄭へ、史皇は戦死した。
- 呉軍は清発で楚軍を追撃しようとした際、夫槩王は「窮鼠は猫を噛む、半ば渡らせてから撃てば戦意を失わせられる」と進言し、これに従って大勝、五戦して郢に迫った。己卯の日、楚の昭王は妹の季芊を伴い睢水を渡って脱出し、鍼尹固と同舟した。庚辰、呉は郢に入城し諸将で分割占拠したが、夫槩王が令尹の宮を占拠していた公子山を攻めようとしたため、山は退いた。
- 楚の左司馬戌は息の地で楚軍を立て直し、呉軍を雍澨で破って手傷を負わせた。戌は闔廬に捕らえられることを恥じ、部下に「誰か我が首を敵に渡さず処理できるか」と問い、呉句卑が引き受け、戌の遺体を包み隠して首だけを持ち帰った。
- 楚王は雎水・長江を渡って雲中に至り、野営中に賊に襲われたが、王孫由于が身をもって王をかばい肩を負傷した。王は鄖へ逃れ、鍾建が季芊を背負って随行した。鄖公辛の弟・懐は「平王は我が父を殺した、その子を殺して何が悪い」と王の弑逆を企てたが、辛は「君を討つ臣を誰が咎めよう、君命は天命、天命によって死ぬなら誰を怨めばよいのか」と諭し、強きを恃み弱きを凌ぐのは勇ではなく、仁義孝知に悖ると説いて弟を退け、王を奉じて随へ逃れた。
- 呉軍が随に迫ると、随人に「漢水流域の周の子孫は楚に滅ぼされたが、天は今その罰を楚に下している。もし周室に報い、我らに恵みを施すなら、漢陽の地を差し上げよう」と誘ったが、占いで吉と出ず、随人は「随は小国ながら楚に助けられてきた盟約の恩義がある、いま危難だからと見捨てては信を失う」と述べて呉の要求を拒み、呉軍は退いた。
- かつて子期の家臣であった者が実は随人と通じており、王が召し出して弁明させると、王は自ら誓約を破らぬよう慎み、子期の心情に配慮して随人との盟を結んだ。伍員と親交のあった申包胥は、伍員が復讐を誓った際「お前が楚を滅ぼすなら、私は必ず楚を興す」と応じており、昭王が随に逃れると、申包胥は秦へ赴いて援軍を乞い、呉の暴虐を訴えて七日七晩泣き続け、食も断って哀願した。秦の哀公はついに心を動かされ援軍を出した。
魯定公五年(前505年)
- 夏、楚は蔡へ穀物を送り危急を救った。申包胥が秦の援軍(子蒲・子虎率いる五百乗)を伴って戻ると、子蒲はまず楚軍単独で呉と戦わせ、後から加勢して沂で夫槩王を大破した。楚は柏挙で薳射を捕らえ、その子が軍祥で呉を破った。秋、子期・子蒲は唐を滅ぼした。
- 九月、夫槩王は呉に帰り自立を図ったが、闔廬に敗れて楚に亡命し堂谿氏となった。呉は雍澨で楚軍を破ったが、秦軍が呉を破り、麇に陣した呉軍を子期が焼き討ちして敗り、公壻の谿でも大勝したため、呉王はついに撤退した。葉公諸梁の弟・后臧は母に従って呉にいたが、王命を待たず勝手に帰国したため、葉公はその後彼を正視しなかった。
- 冬、楚の昭王は郢に帰還した。開戦前、闘辛は呉の内紛(王位争い)を聞き、「譲り合わぬ内紛は必ず不和を生み、遠征は続けられぬ、いずれ呉は撤退し楚は立て直せる」と予見しており、その通りとなった。
- 王の逃避行で藍尹亹は自分の家族だけを舟で渡し王を見捨てたため、復位後の王はこれを罰しようとしたが、子西は「子常のような旧怨に囚われた振る舞いを真似るべきでない」と諫め、王は罰を止め旧職に復させて戒めとした。王は闘辛・王孫由于・王孫圉・鍾建・闘巣・申包胥・王孫賈・宋木・闘懐らに功に応じ賞を与えた。子西は闘懐(かつて王殺害を企てた者)の赦免を願い出、王は「大徳は小怨を消す」として許した。申包胥は「私は君のために働いたのであり、己のためではない、君はすでに安定した、これ以上何を求めよう」と述べ、また子旗(別件で咎を負う立場)に対する自責もあって、賞を辞退し身を隠した。
- 王は妹の季羋を嫁がせようとしたが、季羋は「女が男から遠ざかるための礼を破って鍾建に背負われた身、その恩を返したい」と述べ、鍾建に嫁いで楽尹の妻となった。王の逃避中、子西は輿服を整えて王のごとく振る舞い脾洩の地で国体を保っていたが、王の所在が判明してから合流した。王孫由于に麇の地の回復を命じ、帰還後に子西が地形の詳細を尋ねたが由于は答えられず、子西が「務めを果たせぬなら辞退すべきだった」と咎めると、由于は「人にはそれぞれ得手不得手がある、雲中で賊に遭った時、私が身代わりに戈を受けたのはこの背の傷が証だ、これが私の能である、脾洩の任は私の能ではない」と答えた。
魯定公六年(前504年)
- 四月、呉の太子・終纍が楚の水軍を破り、潘子臣・小惟子ら大夫七人を捕らえた。楚は大いに動揺し滅亡を恐れた。子期の陸軍も繁揚で敗れた。令尹・子西はこれを機に「今こそ改革の時だ」として郢から鄀へ遷都し、政治を立て直して楚国を安定させた。
魯哀公元年(前494年)
- 楚王は柏挙の敗戦への報復として蔡を包囲し、子西があらかじめ定めた規格どおりに、わずか九日で高く広い土塁を築いた。蔡の人々は男女に分けられ、江水・汝水の間への移住に同意し、楚は囲みを解いた。蔡はこれを機に呉への遷都を求めた。
魯哀公二年(前493年)
- 呉の泄庸が蔡に赴き、婚礼の名目で少しずつ兵を送り込み、ついに全軍を入城させた。事態に気づいた蔡の人々に対し、蔡侯は動揺を鎮めるため公子駟を殺して詫び、先祖の墓を泣きながら遷して、冬に州来へ遷都した。
魯哀公四年(前491年)
- 春、蔡の昭侯が再び呉へ赴こうとすると、たび重なる遷都を恐れた大夫たちが公孫翩に命じて侯を追わせ矢を射かけた。侯は民家に逃げ込んで死に、公孫翩は矢二本で入口を守り、誰も近づけなかった。文之鍇が遅れて到着し、皆に壁のごとく密集して進むよう命じ、犠牲を出しながらも接近、自ら弓を執って先に射ると肘を射抜かれたが、そのまま翩を討ち取った。この事件により公孫辰は追放され、公孫姓・公孫盱は誅殺された。