春秋左傳事類始末穆后崩じ景王、彝器を晋に求める(穆后崩景王求彞器於晉)

周の穆后の喪に際し、周王が晋の使者・籍談に彝器献上の遅れを問い詰め、答えられなかった籍談は叔向から、喪中に宴を開き彝器を求める王の振る舞いこそ礼に反すると評された経緯を描く。

年表(1件)

魯昭公十五年(前527年)

  • 秋八月、周の穆后が崩じた。十二月、晋の荀躒が周に赴き葬儀に列した。葬儀と服喪を終えた後、文伯(籍談)を伴って酒宴を開き、周王は魯から贈られた壺を用いながら「諸侯は皆、王室を鎮め支える宝器を献上しているのに、晋だけが無いのはなぜか」と問うた。
  • 籍談は「諸侯は王室から鎮撫の器を賜って社稷を守ってきたからこそ王室に彝器を献上できるが、晋は深山にあって戎狄と隣り合い、王室から遠く、その恩恵も及ばず、戎狄への対応に追われて器を献上する余裕がなかった」と答えた。
  • 周王は「叔父(晋の始祖唐叔)は成王の同母弟であるのに、その分け前が無かったはずがない。密須の鼓と大路(成王の武功を偲ぶ品)、闕鞏の甲(武王が殷に克った際の品)を唐叔は受け、また戎狄の地を治めた。その後、襄王の代には二路・鉞鏚・秬鬯・彤弓・虎賁を文公が受け、南陽の田を得て東方を治めた。功績があれば土田を与え彝器で鎮め、車服で表彰し文章で顕彰し子孫に伝えるのが福というものだ、それが晋の叔父だけ無いということがあろうか」と述べ、さらに晋の始祖・孫伯黶が典籍を司って籍氏の由来となったこと、辛有の二子が董の史官の祖となったことを挙げ「なぜそれを忘れたのか」と籍談を問い詰めた。
  • 籍談は答えられず退出した。周王は「籍父の家系はもう続くまい、典故を数えながら自らの祖を忘れるとは」と述べた。籍談は帰国してこれを叔向に語ると、叔向は「王も長くはないだろう。人は楽しむところで終わるというが、王は憂うべき時に楽しんでいる。王はこの一年で三年の喪に相当する不幸を二度も経験しながら(王室では期年の喪だが太后は三年の喪に准えられる)、喪中に宴を開き彝器まで求めるとは、憂いを楽しみとするも同然で礼にも反する。彝器は功を嘉する時に用いるもので、喪の際に求めるものではない。三年の喪は身分が高くとも全うすべき礼であり、王がそれを全うせずに早々に宴楽を催すのも礼に反する。礼は王たる者の大原則であり、一挙にしてこれを二つも失うとは、大原則を失ったに等しい。言葉は典故を考証するためのもの、典故は道理を記すためのものだが、道理を忘れて言葉ばかり多くしても、典故など何の役に立とうか」と評した。