春秋左傳事類始末周の甘人、晋の閻嘉と閻田を争う(周甘人與晉閻嘉争閻田)
周の甘人と晋の閻嘉が閻の田地を争い晋が周の邑を攻めたことに対し、周王が詹桓伯を遣わして晋の非を糾弾、叔向の進言で晋が非を認め田地を返還し和解した経緯。
年表(1件)
- 魯昭公九年前533年周晋が閻田を争い衝突するも、詹桓伯の抗議と叔向の進言で晋が田地を返還し和解
魯昭公九年(前533年)
- 周の甘人と晋の閻嘉が閻の田地の帰属を争い、晋の梁丙・張趯が陰戎を率いて周の邑・潁を攻めた。
- 周王は詹桓伯を晋に遣わして抗議させた。詹桓伯は「夏より以来の周の四方の領土(西土・東土・南土・北土)の由来、文武成康の代に一族を封じて周室の藩屏としたのに、いま戎狄がその封地に入り込み中原を侵しているのは晋の伯父(晋侯)の責任だ」と述べ、かつて先王が戎狄の頭目・檮杌を四方に追いやったにもかかわらず、允姓の戎が晋の惠公によって瓜州から誘い入れられ、周の諸姫の地に侵入したことを非難した。
- さらに「伯父(晋侯)は周にとって冠冕・根本・謀主のような存在であり、もし冠冕を裂き根本を断ち謀主を捨てるなら、戎狄すら恐れるに足りない」と述べ、道理は周にあるとして晋に善処を求めた。
- 晋の叔向は宣子(韓起)に「晋が覇者となって以来、代々徳が衰え周室を軽んじる風潮があり、諸侯の離反も無理はない。しかも王の言い分に理がある以上、考え直すべきだ」と進言し、宣子もこれに納得した。
- ちょうど周王に姻戚の喪があったため、晋は趙成を周に遣わして弔問させ、あわせて閻の田地を返還し葬儀の贈物も送った。潁で捕らえた周の捕虜も返し、周も捕らえていた甘の大夫・襄を釈放して晋に応じた。晋はこれを丁重に扱い帰国させた。