春秋左傳事類始末鄭、公孫黒の罪を討つ(鄭討公孫黒之罪)

鄭で公孫黒(子晳)が婚約者を争って公孫楚(子南)を殺そうとして返り討ちに遭い、子産が両者の罪を裁いて子南を追放する一方、専横を続けた公孫黒には後に三つの死罪を数えて自裁を迫った顛末。あわせて秦の公子鍼(后子)の晋への亡命と豪奢な振る舞い、楚の公子干の晋亡命をめぐる叙向の評も付す。

年表(4件)

魯昭公元年(前541年)

  • 鄭の徐吾犯の妹は公孫楚(子南)と婚約していたが、公孫黒(子晳)も強引に求婚した。犯が子産に相談すると、子産は「国政の問題ではない、妹自身に選ばせよ」と助言した。
  • 華美に着飾って現れた子晳と、戎装で弓射の技を見せた子南のうち、妹は勇壮な子南を選んだ。
  • 子晳は怒って甲を隠し持ち子南を殺そうとしたが、逆に子南に手傷を負わされた。大夫たちが対応を協議する中、子産は身分の上下より罪の有無で裁くべきと述べ、子南を呼び出して、君の威を恐れず兵を用いた・国の秩序を乱した・上位者である子晳を敬わなかった・年少で長者を敬わなかった・同族に兵を向け親族を大事にしなかった、という五つの過ちを挙げて咎めた。君命により死は免じられ、子南は呉へ追放された。
  • 子産は太叔(游吉)に相談し、太叔は「私情でなく国のためを図って行え」と答え、周公が管叔を誅し蔡叔を追放した故事を引いて、子産の判断を支持した。
  • 鄭の諸公子(游氏一族)の内紛により、六月に鄭伯と大夫たちが公孫段の家で盟を結んだ。公孫黒(子晳)は強引にこの盟に加わり、太史に自分の名を書かせるなど専横をふるったが、子産はあえて咎めなかった。

魯昭公二年(前540年)

  • 公孫黒は游氏に取って代わろうとし、駟氏ら諸大夫に討たれかけた。都の外にいた子産は急ぎ戻り、伯有討伐を専断した罪・兄弟で室を争った罪・薫隧の盟で君の位を僭した罪という三つの死罪を数え上げて自裁を迫った。
  • 公孫黒は往生際悪く抗弁したが、子産に「凶事をなす者を天に代わって助けはしない」と一蹴され、七月に自ら首を吊って死んだ。遺体は周氏の街路にさらされ、木を立てて示された。

秦・楚と晋の交わり(昭公元年、前541年)

  • 秦の公子鍼(后子)は桓公・景公二代に寵愛されたが、母は「罪を問われて誅されることを恐れ、去るべき」と勧め、鍼は晋に亡命した。千乗の車を連ね、晋侯をもてなすために黄河に舟橋を架け、十里にわたり車を並べるほどの豪奢ぶりで、雍から絳まで至った後、酬幣を取りに帰り、九度の献上を終えるまで八度往復した。
  • 司馬侯が問うと、后子は「これでも少ない方だ、これ以上減らせば貴国に認めてもらえまい」と答えた。女叔斉が公に報告すると、悼公は「秦公子は必ず帰国するだろう、過ちを知る者には立派な計画があり、それは天の助けるところだ」と評した。
  • 冬、楚では公子囲が君(郏敖)を弑し、右尹子干は五乗の車で晋に亡命した。叔向は秦の公子(后子)と同じ待遇で子干をもてなすよう計らい、趙文子が「秦公子は富裕だ」と言うと、叔向は「禄は徳・年齢・地位によって定めるべきで、富によってではない。しかも千乗を挙げて国を去るほどの驕りは、憐れむべきものではない」と論じ、詩を引いて弱者を侮らぬ道を説いた。子干に序列を譲らせようとしたところ、后子は「私は罪を恐れて逃げてきた身、羈旅の身の私と序列を争うのはよくない」と辞退した。

昭公五年(前537年)

  • 后子(公子鍼)は、秦景公の死を機に秦へ帰国した。