春秋左傳事類始末北宮文子、鄭に礼有りと謂う(北宫文子謂鄭有禮)

衛の北宮文子が鄭を通過した際、印段・子羽・子大叔ら鄭の卿がそれぞれの能力に応じて外交を分担し礼を尽くす様を見て、鄭の将来を高く評価した話。子産が人材を適材適所で用いた統治のあり方も併せて描く。

年表(1件)

魯襄公三十一年(前542年)

  • 衛の北宮文子(北宮佗)が衛の襄公を補佐して楚へ向かう途中(宋の会盟に関わる用件のため)鄭を通過した。鄭の印段が棐林で出迎えてねぎらい、聘問の礼に準じたもてなしをしながら、あくまで「慰労」の名目で通した。文子が鄭に入って正式に聘問すると、子羽が接待役を務め、馮簡子と子大叔が客を出迎えた。すべてが終わって退出すると、文子は衛侯に「鄭には礼がある、これは幾代にもわたる幸福の基だ、大国から咎めを受けることもないだろう。詩に『誰が熱いものを扱いながら、水で手を冷やさずにいられようか』とあるが、政治における礼は、熱いものを水で冷ますようなもの、冷ませば熱を防げる、何を心配することがあろう」と語った。子産の政治は、それぞれの能力に応じて人を用いるものだった。馮簡子は大事を決断する力に優れ、子大叔は容姿も麗しく学があり、公孫揮(子羽)は諸国の情勢に通じ、諸侯の大夫の家柄・地位・能力を弁え、加えて言葉遣いにも長けていた。裨諶は策を練るのに優れていたが、郊外で考えれば的を射るのに、都の中で考えるとうまくいかなかった。鄭で諸侯との外交事が生じるたびに、子産はまず子羽に他国の情勢を尋ね、多くの言葉を用意させ、裨諶と共に郊外へ出て可否を考えさせて報告させ、馮簡子に決断させ、事がまとまれば子大叔に実行させて賓客への応対に当たらせた。このため失敗することが少なく、北宮文子が「礼がある」と評したのはこのことである。