春秋左傳事類始末鄭の伯有、侈愎にして死す(鄭伯有侈愎而死)

鄭の大夫伯有(良霄)が驕り高ぶり酒色に溺れて政務を怠り、公孫黒(子晳)との対立を深めた末に攻められて出奔し、討ち死にするまでの顛末。子産は伯有を弔い、死後に起きた亡霊騒動も良止を立てて鎮めた。魯襄公二十八年から昭公七年までの十年余りにわたる。

年表(4件)

魯襄公二十八年(前545年)

  • 宋の盟のため魯の襄公が楚へ赴く途中、鄭を通過した際、鄭伯(簡公)は在国しておらず、大夫の伯有が黄崖で出迎えの労をとったが、その態度は不敬であった。穆叔は「伯有が鄭で無事でいられようか。鄭にはきっと大きな禍が起こる。民を敬い治める立場でありながら礼を弃てるとは、どうして国政を保てよう。鄭の人々が彼を処罰しなければ、必ず自らその報いを受けるだろう」と評した。

魯襄公二十九年(前544年)

  • 伯有は公孫黒(子晳)を楚への使者に立てようとしたが、公孫黒は「楚と鄭はいま険悪な関係にあり、私を行かせるのは私を殺すようなものだ」と辞退した。伯有は「これは世襲の職務だから仕方ない」と主張したが、公孫黒は「無事なら行くが、危険なら断る。世襲がなんだ」と反発した。伯有は強引に行かせようとし、公孫黒は怒って伯有一族を討とうとしたが、大夫たちが仲裁した。
  • 十二月、鄭の大夫たちが伯有の邸で盟を結んだ。裨諶は「この盟は長続きしまい。詩に『君子がしきりに盟えば、乱れはかえって長引く』とある。今回もまさに乱を長引かせる道で、禍はまだ収まっていない。必ず三年を経て初めて和らぐだろう」と述べた。然明が「では政はどこに落ち着くのか」と問うと、裨諶は「善い者が不善な者に取って代わるのは天命であり、避けようがない。子産は序列を越えずに用いられており、位が順当で、善を選んで用いられれば世が盛んになる。天はまた伯有の魂魄を奪おうとしている。子西も世を去れば、この禍を避けられない者が誰かおろうか。天が鄭に禍を下してもう久しい。必ず子産にこれを鎮めさせるだろう。それでようやく免れられるが、そうでなければ鄭は滅びるだろう」と答えた。

魯襄公三十年(前543年)

  • 子産が鄭伯に随行して晋へ赴いた際、叔向が鄭の政情を尋ねると、子産は「お目にかかれるかどうかは今年次第です。駟氏と良氏(伯有)がまさに争っており、まだ結果が分かりません」と答えた。叔向が「もう和解したのではないか」と問うと、子産は「伯有は驕り強情で、公孫黒(子晳)も人の上に立つことを好み、互いに譲りません。和解したように見えても、憎しみは積もる一方で、いつ破綻してもおかしくありません」と答えた。夏、鄭伯とその大夫たちは盟を結んだが、君子はこれによって鄭の内紛がまだ収まらないことを知った。
  • 伯有は酒を好み、地下室を作って夜通し酒宴を開き、鐘を鳴らして楽しんだ。朝廷に出仕する者たちは、公がどこにいるか分からず、「わが公は谷底におられる」と噂した。人々は朝廷での職務をないがしろにするようになった。その後、伯有は公孫黒(子晳)を楚への使者に立て、自らは帰って酒宴を開いた。公孫黒は駟氏の兵を用いて伯有の邸を攻めて焼き払い、伯有は許へ出奔した。
  • 大夫たちが集まって対応を協議し、子皮は「仲虺の言葉に『乱れた者は攻め取り、亡びかけた者は侮ってよい。亡ぶ者を推し進め、存する者を固めるのが国の利益だ』とある」と述べた。罕氏(子皮)・駟氏(子晳)・豊氏(公孫段)は同族から出ているが、伯有だけは孤立した上に驕り高ぶっていたため滅びを免れなかった。人々は子産が正しい側(公孫黒側)を助けて強者に与したと噂したが、子産は「私がどうして党派の徒であろうか。国の禍難がどちらに帰するかは誰にも分からない。強く正しい側が主導すれば禍は起きない。私はただ自分のなすべきことを成すだけだ」と述べた。
  • 子産は伯有一族の戦死者を収容して弔い、上への相談を待たずに実行した。印段もこれに従った。子皮は「先生(子産)は死者にさえ礼を尽くす、まして生者に対してはなおさらだ」と述べ、伯有の残党を討とうとする動きを自ら止めた。鄭伯と大夫たちは大宮で盟を結び、国人とは師の梁の外で盟を結んだ。
  • 伯有はこの盟が自分を排除するものだと聞いて怒ったが、子皮の兵が自分を攻める側に加わっていないと聞いて喜び、「子皮は私に味方している」と考えた。伯有は墓門の水路から侵入し、馬師頡(子羽の孫)を従えて襄庫で武装し、旧北門を攻めた。駟帯が国人を率いてこれを討った。人々はみな子産を召し出そうとしたが、子産は「兄弟同士がこのような事態になったのは天命だ」と述べ、天の定めに従った。伯有は羊の市場で討ち死にし、子産はその遺体を弔い、股に枕して哭泣し、斗城に葬った。
  • 駟氏が子産を攻めようとしたが、子皮が怒って「礼は国の根幹である。礼をわきまえた者を殺すことほど大きな禍はない」と諫めてこれを止めさせた。
  • このとき游吉は晋への使者として出発していたが、帰国せず晋にとどまって復命を代理の者に託し、八月に晋へ亡命した。駟帯がこれを追い、両者は黄河で誓約の玉を沈めて和解し、游吉は帰国した。
  • 以前、子蟜が没した年、その葬儀の際、公孫揮(子羽)と裨竈が朝早く事に赴く途中、伯有の邸の前を通ると門の上に雑草が生い茂っていた。子羽は「あの雑草はまだあるだろうか」と言った。このとき歳星は降婁の次にあり、裨竈は「まだ一年を全うできるだろう。歳星がこの位置に至らなければ滅びには至らない」と述べていたが、伯有が滅んだとき、歳星はまさに娵訾の口の位置にあった。

魯昭公七年(前535年)

  • 鄭の人々は伯有の亡霊に驚き、「伯有が来た」と言っては皆逃げ惑い、行き先も分からなくなった。刑書を鋳造した年の二月、ある人が伯有が武装して現れる夢を見て、伯有は「壬子の日に駟帯を殺し、来年壬寅の日には公孫段を殺す」と告げたという。壬子の日になると駟帯が没し、国人はますます恐れた。翌年、斉と燕が講和した月の壬寅の日に公孫段が没し、国人の恐れはいよいよ深まった。
  • その翌月、子産は公孫洩と良止(伯有の子)を立てて霊を慰めた。人々はようやく落ち着いた。子大叔がその理由を尋ねると、子産は「鬼に帰るべき先があれば祟りをなさない。私は彼らに帰る先を与えたのだ」と答えた。子大叔が「公孫洩を立てたのはなぜか」と重ねて問うと、子産は「筋を通すためだ。私利のためではなく、世を納得させるための処置だ」と答えた。「政には道理に反してでも民の歓心を得るべき場合がある。歓心を得なければ信頼されず、信頼されなければ民はついてこない」とも述べた。
  • のちに子産が晋へ赴いた際、趙景子が「伯有はなお鬼になれるものか」と尋ねると、子産は「なれる。人は生まれて初めに魄が形成され、魄が生じたのちに陽の気である魂が備わる。物を多く用いれば魂魄は強くなり、精気が盛んになれば神明の域に達する。凡人でも非業の死を遂げれば、その魂魄はなお人に取り憑いて祟りをなすことがある。まして良霄(伯有)は我が先君穆公の子孫であり、子良の孫、子耳の子として、鄭の卿として三代にわたり政を執った家柄である。鄭は小国とはいえ、諺に『小さな国でも三代政権を執れば』とあるように、用いた物も多く、取り込んだ精気も多く、一族も大きく、頼るところも厚い。それが非業の死を遂げたのだから、鬼となるのも当然のことだ」と答えた。