春秋左傳事類始末楚の声子、椒挙を復す(楚聲子復椒舉)
楚から亡命した伍挙を旧友の声子が救うため、楚の令尹子木に楚の人材が晋で用いられ楚を害してきた過去の例(析公・雍子・子霊・苗賁皇)を説き、刑の濫用を戒めた。子木は納得して伍挙を呼び戻した。
年表(1件)
- 魯襄公二十七年前546年声子が子木を説き伍挙が楚に呼び戻される
魯襄公二十七年(前546年)
- かつて楚の伍参と蔡の大師(子朝)は友人であり、その子の伍挙と声子も親しかった。伍挙は王子牟(申公)の娘を娶ったが、王子牟が罪を得て亡命すると、楚人は「伍挙が実際に逃亡を手引きした」と噂した。伍挙は鄭へ出奔し、さらに晋へ向かおうとした。声子が晋へ赴く途上、鄭の郊外でたまたま伍挙と出会い、荊の枝を敷いて共に食事をしながら語り合った。声子は「そなたは行きなさい、私が必ずそなたを楚に復帰させよう」と約束した。
- 宋の向戍が晋楚の和平(弭兵)を進めていた頃、声子は晋へ使いした帰途、楚に立ち寄り令尹子木に晋の事情を尋ねられた。子木が「晋と楚の大夫はどちらが優れているか」と問うと、声子は「晋の卿は楚に及ばないが、その大夫は皆卿の器量を備えた賢才ばかりだ。杞・梓・皮革のような良材はもともと楚から流出したもので、楚に人材があっても実際に用いているのは晋だ」と答えた。子木が「では楚に自国の同族姻戚の人材はいないのか」と問うと、声子は「いるにはいるが、楚の材を用いているのはむしろ晋の方が多い」と述べた。
- 声子は続けて、善政を行う国は賞に誤りなく刑に濫用がないものであり、賞を誤って濫発すれば悪人にまで及ぶことを恐れねばならず、刑を濫用すれば善人にまで及ぶことを恐れねばならない、過ちを犯すなら賞を誤る方がまだよく刑の濫用は避けるべきだと説き、『詩経』『夏書』『商頌』を引いて善政の要諦(賞は春夏に、刑は秋冬に行い、賞するときは君主自ら食膳を増し、刑するときは音楽を止めて慎む等)を述べた。
- その上で、楚が刑を濫用してきたために多くの人材が国外へ逃れ、かえって楚に害をなす謀主となっている例を列挙した。子儀の乱で晋に逃れた析公は、繞角の戦いで晋軍が退却しようとした際に楚軍を夜襲で潰走させる策を授け、晋はこれに乗じて蔡・沈を侵し申・息の軍を桑隧で破り、鄭を屈服させ、楚は華夏の地における影響力を失った。雍子は父兄に讒言されて晋に奔り、彭城の戦いで楚軍を夜襲によって潰走させる策を献じ、楚は東夷への影響力を失った。子霊(巫臣)は夏姫を巡る争いから晋に奔り、呉に戦車・弓射の技を教えて楚に叛かせ、以後楚は呉への対応に疲弊し続けている。苗賁皇は若敖氏の乱で晋に奔り、鄢陵の戦いで楚軍の弱点(王族の中軍に精鋭が集中している点)を見抜いて策を授け、楚軍は大敗し王は目を負傷し子反は自害し、鄭は楚から離反して呉に近づき、楚は諸侯への影響力を失った。子木はこれらすべてを認めた。
- 声子はさらに「今はこれよりも甚だしい例がある」として、伍挙の一件(申公子牟の一族の疑いをかけられ亡命中で、晋がまさに彼を厚遇し叔向に並ぶ待遇を与えようとしていること、もし彼が楚に害をなすことを謀れば大きな禍になること)を説いた。子木は恐れて伍挙の官爵を高めて楚に呼び戻し、声子は伍挙の子・椒鳴を遣わしてこれを迎えさせた。