春秋左傳事類始末宋の向戌、諸侯の兵を弭める(宋向戍弭諸侯之兵)
宋の向戍が晋楚の和睦を図り、趙文子・子木の協力を得て宋で弭兵の会盟を実現させる。楚の衷甲や先後の争いなどの緊張を経て晋楚の信義が保たれ、諸侯が晋楚双方に朝見するようになる経緯を描く。魯襄公二十五年から三十一年にかけて、楚康王の死や襄公の楚宮造営と薨去にまで及ぶ。
年表(5件)
- 魯襄公二十五年前548年趙文子が政をとり穆叔が戦の弭むことを予感する
- 魯襄公二十六年前547年許の霊公客死を機に楚が鄭を攻めるが子産の判断で衝突を避ける
- 魯襄公二十七年前546年向戍の仲介で宋の弭兵の会盟が成る
- 魯襄公二十八年前545年諸侯が晋に朝見し楚康王が没する
- 魯襄公三十一年前542年襄公が楚宮を造営しそこで薨去する
魯襄公二十五年(前548年)
- 晋の趙文子(趙孟)が政をとり、諸侯への貢納を軽くして礼を重んじた。穆叔はこれを見て「これからは戦が少しは弭むだろう」と述べた。斉では崔杼・慶封が新たに政権を握り諸侯との友好を求めており、趙武は「楚の令尹(屈建)が礼を敬い行い、外交辞令で諸侯を導けば、戦は弭められる」と考えた。
魯襄公二十六年(前547年)
- 許の霊公が楚に赴き鄭討伐を求めた(かつて晋が許を伐った際、他国は大夫を出したのに鄭伯自らが出陣したことを恨んでのことである)。霊公は「出師されなければ帰国しない」と言い、八月に楚で客死した。楚子は「鄭を討たねば諸侯に示しがつかない」として冬に鄭を攻めた。鄭は防戦せず、子産は「晋と楚が和睦しようとしている時に事を構えるのは得策でない、楚の欲を満たして帰らせる方が和睦への近道だ」と説き、子展もこれに同意して迎撃しなかった。楚軍は南里に入り城門を壊し、汜水を渡って帰った。その後、許の霊公を葬った。
魯襄公二十七年(前546年)
- 宋の向戍は趙文子とも楚の令尹子木とも親しく、名を挙げようと諸侯の兵を弭めることを図り、晋に赴いて趙孟に告げた。趙孟は諸大夫と協議し、韓宣子は「兵は民を損ない財を蝕む小国の大患であるから、たとえ実現不可能でも許すべきだ、拒めば楚が代わりに諸侯を招き盟主の地位を失う」と述べ、晋はこれを許した。楚・斉・秦も次々に同意し、諸小国にも告げて宋で会盟することとなった。
- 向戍は晋楚双方の従属国が互いに参会することを提案し、趙孟は「晋楚斉秦は対等であり、晋が斉を従えられないのは楚が秦を従えられないのと同じだ、楚が秦を参会させれば晋も斉に求める」と答えた。楚王は「斉秦は除外し他国のみ相見えればよい」とし、盟の場は柵で囲み晋楚が各々の陣を分けて処することとなった。
- 伯州犂は楚軍が鎧を着込んでいる(衷甲)ことに不信を覚え、趙孟に警告した。趙孟は「宋を頼みに退けば楚に何ができようか」と動じなかった。伯州犂が子木に不信を質しても、子木は「晋楚に信義など久しくない、利さえあればよい」と取り合わなかった。楚の大宰は「令尹(子木)はまもなく死ぬだろう、信を捨てて志を遂げようとしても長続きしない」と評した。
- 趙孟が楚の衷甲を叔向に相談すると、叔向は「一人が信を失っても構わないが、諸侯の卿が皆で不信を行えば必ず成功しない、宋を頼みに死力を尽くせば楚に負けても構わない、恐れるに足りない」と答えた。
- 季武子が叔孫に、邾・滕は魯の属国だから会盟に加えないよう伝えたが、斉が邾を、宋が滕を各々自派として要求し、両国は盟に加わらなかった。叔孫は「邾・滕は私邑ではなく列国だ、宋・衛と同格だ」と述べ、結局盟に加わった。
- 晋楚は会盟での先後を争い、晋は「晋は元来盟主である」と主張し、楚は「晋楚が対等というなら、晋が常に先とは言えぬはずだ、両国は久しく交互に盟主を務めてきた」と反論した。叔向は趙孟に「諸侯は晋の徳に帰服しているのであり、誰が先に盟を主宰するかは重要でない、徳を務め先を争うな」と説き、結局楚を先に載せつつ実際の盟書では晋を先とした(晋の信義による)。
- 宋公は晋楚の大夫を饗応した。趙孟が客となり子木と対話したが子木は答えられず、叔向に対応させてもようやく返答した。子木が趙孟に范武子(士会)の徳を問うと、趙孟は「その家は治まり、晋国に隠し事なく、祝史も鬼神に対し恥じることを言わない」と答えた。子木は楚王にこれを伝え、王は「よくぞ神人を感動させるものだ、五代の君を輔けて盟主たり得たのも当然だ」と嘆じ、また「晋には叔向のような賢臣がいるから覇たり得る、楚には対抗できる者がいない」と語った。
- 晋の荀盈が楚に赴き盟に臨んだ。鄭伯は垂隴で趙孟を饗応し、子展・伯有・子西・子産・子大叔・二子石が随行して各々詩を賦した。趙孟は各人の賦から人柄を読み取り、子展・子産・印段・公孫段の堅実さを称賛する一方、伯有の賦(鶉之賁賁)には淫乱を諷したものとして不快感を示した。
史論(文子)
- 趙文子は叔向に「伯有はいずれ誅殺されるだろう、詩でその志を示しながら君を怨んでいるのに賓客として栄誉を受けている、長続きしまい」と語った。叔向も同意し「五年と保たぬだろう」と述べた。趙文子はさらに「他の者は皆数世にわたり主たりうる器だ、子展は最も長く保つだろう、印段もそれに次ぐ」と評した。
- 宋の向戍が弭兵の功により賞を求めると、子罕は「戦は諸侯を戒め上下を和させるためのものであり、廃してはならない、それを求めて除こうとするのは誣言だ、まして賞を求めるのは貪欲に過ぎる」と厳しく批判し、その邑を削って投げ返した。向戍は邑を辞退した。攻撃しようとした向氏の一族に対し、司城(楽喜)は「我が家が滅びずにいるのは向戍のおかげだ」と述べ、これを助けたという。
- 楚の薳罷が晋に赴き盟に臨み、晋侯の饗応で「既醉」の詩を賦した。叔向は「薳氏は楚で後々まで栄えるだろう、王命を敬い忘れぬ敏さがある」と評した。
魯襄公二十八年(前545年)
- 夏、斉・陳・蔡・北燕・杞・胡・沈・白狄の君主が宋の盟の縁で晋に朝見した。斉侯は当初出席をためらったが、陳文子に「大国に事えるにはまず礼を尽くし後に財を贈るのが礼儀だ」と諭され従った。魯の孟孝伯も晋に赴き、宋の盟の礼として楚にも赴く旨を告げた。
- 鄭の游吉が楚に赴く途上、楚は「今回は結構、寡君の意向を伝えるので晋にも使者を出す」と引き返させた。子大叔は「宋の盟は小国を利し社稷を安んじるためのものだったのに、今さら小国に無理を強いるのは盟約の趣旨に反する」と非難した。
- 子大叔は帰国し子展に、楚子は政治も徳も修めず諸侯を貪り欲を満たそうとしている、周易の「復」の卦で言う「迷復(迷ったまま復る)凶なり」がまさに楚子のことだと述べ、遠からず死ぬだろうと予言した。
- 裨竈は「今年、周王と楚子は共に死ぬだろう」と、歳星の運行から不吉な兆しを説いた。
- 九月、鄭の游吉が晋に楚への朝見を告げ、子産が鄭伯に随行して楚に赴いた際、壇を築かず宿舎で済ませた(敵国の郊に至れば壇を築いて郊労を受けるのが通例であった)。従者が先例に反すると咎めたが、子産は「大国が小国を訪ねる時に壇を築くのは小国の徳を宣揚するためであり、小国が大国を訪ねる際には不要だ、大国に事える道は五つの善行(罪を赦し過ちを許し患難を救い徳を賞し教化する等)を尽くすことにあり、小国が大国に事える道はその政事を助け貢物を怠らぬことにある」と述べた。
- 冬、魯の襄公は宋・陳・鄭・許の君主らと共に楚に赴く途中、楚の康王が没した。公は帰国しようとしたが、叔仲昭伯・子服恵伯・叔孫穆子・栄成伯らの議論の末、遠慮を重んじ結局そのまま楚へ進んだ。宋の向戍も同様の考えから引き返さず民を休ませつつ喪の様子を見ることとした(ただし宋公は結局引き返した)。楚の屈建が没し、晋の趙文子は同盟国の礼をもってこれを弔った。
魯襄公三十一年(前542年)
- 公(襄公)が楚の宮室を模した「楚宮」を造営した。穆叔は「大誓に『民の欲する所は天必ずこれに従う』とあるが、君が楚を欲したからこそこの宮ができたのだ、もし再び楚に行かねば必ず死ぬことになろう」と述べた。六月、公は楚宮で薨去した。