春秋左傳事類始末溴梁の会(溴梁之會)

晋の范宣子が斉から借りた儀礼具を返さなかったことに端を発し斉が晋への不信を強め、溴梁の会盟や魯・斉間の攻防を経て、晋が平陰の戦いで斉軍を大敗させ和議に至るまでの晋・斉・魯をめぐる8年間の経緯。

年表(8件)

魯襄公十四年(前559年)

  • 冬、戚で会盟した際、范宣子(士匄)は斉から借りた儀礼用の羽毛の飾りを返さなかった。斉はこれを機に晋への不信感を強め始めた。

魯襄公十五年(前558年)

  • 夏、斉が成を包囲した。成が晋に寝返ったためである。

魯襄公十六年(前557年)

  • 晋の平公が即位し、服装・官制を改め、曲沃で冬の祭祀を行い、辺境を警備したうえで南下し、溴梁で会盟して侵略した土地の返還を命じた。晋侯は温で諸侯を饗応し、大夫たちに舞を舞わせ、それぞれ自国にふさわしい詩を歌わせたが、斉の高厚の歌は自国にそぐわず、荀偃は「諸侯には異心がある」と怒り、大夫たちに盟わせたところ高厚は逃げ帰った。叔孫豹・晋の荀偃・宋の向戌・衛の甯殖・鄭の公孫蠆・小邾の大夫らは「共に朝命に従わぬ者を討つ」と盟約した。
  • 秋、斉が郕を包囲、孟孺子速がこれを阻もうとしたが、斉侯は「これは名声を求めるだけの行為だ」として名分を保ちつつ撤退し、速は海陘の要路を塞いで引き上げた。
  • 冬、穆叔(叔孫豹)が晋を訪ね斉の件を訴えた。晋は「我が君はまだ禘祭を行っておらず民も休んでいないためだ、さもなくば忘れはしない」と答えた。穆叔は「斉が朝から晩まで我が国に恨みを晴らしているため、我が国の急迫は夕方も待てぬほどです、首を長くして西を望んでおりますが、間に合わぬことを恐れています」と訴えた。中行献子(荀偃)に会って『詩経』の「圻父」(辺境防衛の詩)を賦すと、献子は「私(偃)に罪がある、あなたと共に社稷を憂えぬわけがない、魯をこのような目に遭わせはしない」と答えた。范宣子に会って「鴻鴈」の末章を賦すと、宣子は「私(匄)がいる限り、魯に安住の地なからしめることはない」と応じた。

魯襄公十七年(前556年)

  • 斉はまだ魯に不満があり、秋に魯の北境を攻め桃を包囲、高厚は防を包囲して臧堅を捕らえた。斉侯は夙沙衛を遣わして労い「死ぬな」と伝えたが、堅は「ご厚意はありがたいが、命を助けられても節を全うできぬ」と答え、自ら従者に傷口をえぐらせて死んだ。

魯襄公十八年(前555年)

  • 秋、斉侯が再び魯の北境を攻めた。中行献子(荀偃)は斉攻めに際し、亡き厲公と訴訟で争い敗れる夢を見た。厲公が戈で首を打ち落とし、跪いて拾い抱えて逃げる夢である。梗陽の巫・皋に出会い、後日再会して語り合うと、巫は「今年、主君は必ず死ぬだろう。ただし東方へ出征すれば免れるかもしれない」と告げ、献子はこれに従うことにした。
  • 晋侯が斉を攻めるため黄河を渡ろうとした際、献子は赤糸で二つの玉を結び、祈って河に沈めてから渡った。冬、魯で会盟し溴梁の盟約を確認、共に斉を攻めることとした。斉侯は平陰で防戦し、巫山に登って晋軍を望んだ。晋は険阻な地形にまで斥候を出し、届かない場所には旗を立てて車を疎らに並べ、薪を曳いて砂塵を巻き上げ大軍に見せかけた。斉侯はその様子に恐れをなして逃げ去り、斉軍は夜中に敗走した。
  • 十一月朔、晋は平陰に入り斉軍を追撃した。夙沙衛は大車を連ねて道を塞ぎ殿を務めていたが、殖綽・郭最が「あなたが国軍の殿を務めるのは斉にとって恥、先に行かれよ」と代わって殿を務め、隘路に馬を殺して道を塞いだ。晋の州綽が追いつき射て殖綽の肩を撃ち、背後から縛り上げ、その御者・具丙も武器を捨てて降り郭最を捕らえた。二人は甲を剥がれ面縛されて中軍の太鼓の下に座らされた。
  • 晋は敗走する斉兵を追おうとし、魯・衛は険路の攻撃を願い出た。己卯、荀偃・士匄が中軍で京茲を陥落させ、乙酉、魏絳・欒盈が下軍で邿を陥落させ、趙武・韓起が上軍で盧を包囲した。范鞅は雍門を攻め、御者の追喜が門内で犬を斬り殺した。孟荘子は門の横木を切り取り公の琴の材とした。州綽は東閭の門を攻め、左驂馬が門内に押し戻された際、悠然と門の閂の数を数えた。
  • 斉侯は郵棠へ逃げようとしたが、太子と郭栄が馬の轡を取り「これは略奪の速攻に過ぎず、すぐ退くでしょう、恐れることはありません。社稷の主が軽々しく動けば衆を失います、しばしお待ちを」と諫めた。強引に進もうとする太子に対し、剣を抜いて轡を切り制止した。
  • この頃、鄭の子孔は他の大夫を排除しようと、晋に叛いて楚軍を招こうと子庚に伝えたが、子庚は応じなかった。楚王はこれを聞き、揚豚尹宜を遣わして「国人は私が社稷を主宰しながら軍を率いず礼を欠くという、即位五年、大夫たちは私が安逸を貪り先君の事業を忘れたと思っているのではないか、考えてほしい」と伝えさせた。子庚は「王は私(午)が安逸を求めていると思うのか、これも社稷のためだ」と嘆きつつ使者に「諸侯は今晋と睦じい、試してみましょう、成功すれば主君は続いて軍を出せばよく、失敗すれば軍を退くまで、いずれにせよ主君の名を辱めません」と答えた。子庚は汾で軍を訓練したが、この時、子蟜・伯有・子張は鄭伯に従い斉を攻めており、子展・子西が守りを固めて子孔の企みを察知していたため、子孔は楚軍と合流できず、楚軍は純門で対陣したのち撤退、渉水の際に大雨に遭い多数の凍死者を出し、役夫もほぼ全滅した。
  • 晋が楚軍の存在を知った時、楽師の師曠は「害はない、北風の曲を繰り返し歌ったが南風は弱く死の兆しが多い、楚は必ず戦果なく終わる」と述べ、董叔も「今年の天道は西北にあり、南方の軍が時を誤って動けば必ず功なし」と述べた。叔向は「それは君主の徳次第だ」と評した。

魯襄公十九年(前554年)

  • 春、諸侯が督揚で「大国は小国を侵さない」と盟約した。晋侯は先に帰国し、公は晋の六卿を蒲圃で饗応、三命の服を賜い、軍尉・司馬・司空・輿尉・候奄には一命の服を賜った。贈答品として荀偃は束帛・璧・馬を献じ、呉の寿夢の鼎を真っ先に差し出した。
  • 荀偃は頭に悪性の腫れ物ができ、黄河を渡り著雍に至って病臥し目が飛び出す症状となった。先に帰った大夫たちも皆戻ってきた。士匄が見舞いを願うも拒まれ、後継者となることを願うと「鄭の甥(士匄を指す)でよかろう」とだけ答えた。二月甲寅、荀偃は没したが目が閉じなかった。宣子(士匄)が手を清めて遺体に触れ「呉王に仕えたように、あなたにも仕えます」と言ったが目は開いたままだった。欒懐子(盈)が「斉との清算が済んでいないからでは」と言い、改めて触れて「必ず斉との債を清算すると河に誓います」と述べると目が閉じ、含玉を納めることができた。宣子は退いて「私は浅はかであった」と述懐した。
  • 季武子が晋を訪ね出兵の礼を述べた。晋侯が饗応し、范宣子が権力を握って「黍苗」の詩を賦すと、季武子は再拝稽首して「小国が大国を仰ぐのは、百穀が雨を仰ぐようなもの、常に恵んでいただければ天下が和睦するでしょう、我が国のみならず」と述べ、「六月」の詩を賦して応えた。
  • 季武子は斉から得た戦利品で林鍾を鋳造し、魯の功績を銘刻した。臧武仲はこれを非礼と指摘し、「銘とは天子が徳を、諸侯が時宜を、大夫が功績を語るものだが、単なる功績を称えるだけなら格が低く、しかも功は他国の力を借りたもの、時宜を語れば民を煩わせたことになる。大国が小国を討って得た戦利品で器を作り功を刻むのは徳を示し無礼を戒めるためだが、小国が大国の恩に与ってこれを誇示するのは怒りを招き滅びを招く道だ」と季孫に諫めた。
  • 夏五月、斉の霊公が没した。晋の士匄が斉に侵攻し穀まで至ったが喪を聞いて撤退した。これは礼にかなうものであった。冬、斉と晋が講和し、穆叔が范宣子と柯で会見した。穆叔は叔向に会い『詩経』「載馳」の四章(大国に訴えて頼る意)を賦すと、叔向は「私(肸)は謹んで命を承ります」と応じた。穆叔は帰国後「斉はまだ油断ならない」と述べ、武城に城を築いた。

魯襄公二十年(前553年)

  • 夏、澶淵で会盟した。斉との和議が成立したためである。

魯襄公二十一年(前552年)

  • 晋の欒盈が楚へ出奔し、知起・中行喜・州綽・邢蒯が斉へ出奔した。いずれも欒氏の党類である。斉の荘公が朝廷で殖綽・郭最を指して「これぞ我が勇者だ」と言うと、州綽は「主君が彼らを勇者とされるなら誰も勇を否めますまい。しかし平陰の役では私が彼ら二人より先に功を挙げております」と言った。荘公が勇士の位を設けようとした際、殖綽・郭最も加わろうとしたが、州綽は「東閭の役で門内に押し戻されながら閂の数を数えていたのは私です、この二人がこの席に加われましょうか」と言った。荘公が「お前は今は晋の主君に仕える身ではないか」と言うと、州綽は「私は今や捕虜の身に過ぎませんが、この二人は私にとって禽獣のようなもの、その肉を食らいその皮の上に寝ているようなものです」と答えた。