春秋左傳事類始末季武子、三軍を作る(季武子作三軍)

魯の季武子が三軍を新設し公室を三分して三氏がそれぞれ一軍を領し、公室が実質的に弱体化する。その後、叔孫穆子の没後に季孫が中軍を廃止し公室をさらに四分するに至るまでの経緯。

年表(3件)

魯襄公十一年(前562年)

  • 季武子が三軍を新設しようとし、叔孫穆子に「三軍を作り、各氏がそれぞれ自軍を徴発したい」と告げた。穆子は「政がやがてあなたの家に集中してしまう」と反対したが、武子は強く求めた。穆子は「それならば盟約を結ぼう」と応じ、僖閎で盟い、五父の衢で呪詛した。
  • 正月、三軍が編成され、公室を三分してそれぞれの氏が一軍ずつを領した。三氏はそれぞれ従来の戦車数を減らす代わりに、季氏は封地持ちの者に賦役を課し、無地の者は免除、孟氏は子弟の半数を家臣とし、叔孫氏は子弟すべてを家臣とした(公室の実質的弱体化)。

魯昭公四年(前538年)

  • 叔孫穆子が没し、季孫は中軍廃止を画策し始めた。

魯昭公五年(前537年)

  • 春、公室を弱めるため中軍を廃止した。季氏は自らが発議者と見られぬよう他の二氏に発議させ、名目上の功を譲る形をとり、施氏の邸で中軍を解体、臧氏の邸で正式に決定した。
  • かつて三軍創設時には公室を三分してそれぞれ一軍ずつを領し、季氏は全員に賦役を課し、叔孫氏は子弟を家臣とし、孟氏はその半数を家臣とした。廃止に際しては公室を四分し、季氏が二分を取り、他の二氏がそれぞれ一分を取り、いずれも全員に賦役を課したうえで公室へ貢納した。
  • 杜洩は書状で先君の柩前にこの経緯を告げ、「あなたはかねて中軍廃止を望んでいましたが、今それが実現しました」と報告した。杜洩は「先君は本当は廃止を望んでいなかったからこそ、僖閎で盟い五父の衢で呪詛したのだ」と語り、書状を受け取ると投げ捨て、士たちを率いて先君の柩の前で哭した。