春秋左傳事類始末秦景公、楚に師を乞い晋を伐つ(秦景公乞師于楚以伐晉)

秦の景公が楚に援軍を求め晋を攻めさせようとし、子嚢は晋の人材登用の優秀さを理由に反対したが楚子は約束を守り出兵、秦は晋に侵攻するも晋は飢饉で報復できず、翌年荀罃が秦を攻めて報いた経緯。

年表(2件)

魯襄公九年(前564年)

  • 秦の景公は士雃を遣わして楚に援軍を求め、晋を攻めようとした。楚子はこれを許そうとしたが、子嚢は反対して「今のわれらは晋と争えない。晋君は有能な人材を用い、選任に誤りなく、官の方針も変わらない。卿は互いに賢者へ譲り、大夫は職務を守り、士は教えに励み、庶民は農耕に努め、商工・奴隷に至るまで生業を変えない。老いた韓厥に代わり知罃が政を執り、范匄は中行偃より若いのに上位に置かれ、韓起は欒黶より若いのに上軍の補佐とされ、魏絳は功多く趙武を賢として補佐に立てている。君は明らかで臣は忠実、上は譲り下は競い合う。このような晋には敵わない、まず事えてから機を窺うべきだ」と諫めた。王は「すでに約束した以上、晋に及ばずとも出兵はする」と答えた。秋、楚子は武城に布陣して秦を後援し、秦人は晋に侵攻した。晋は飢饉のため報復できなかった。

魯襄公十年(前563年)

  • 荀罃が秦を攻め、この侵攻に報いた。