春秋左傳事類始末陳、晋に服す(陳服于晉)
陳の成公が晋の雞澤の会に袁僑を遣わして和を求めたことから楚に離反したとみなされ、楚は令尹子辛・子嚢の代を通じて陳を攻め続け、諸侯が陳を救援するなど晋・楚間で陳の帰趨が揺れ動く4年間の経緯。
年表(4件)
- 魯襄公三年前570年陳が雞澤の会で晋に和を求め楚の司馬に攻められる
- 魯襄公四年前569年陳の成公が薨じ陳人が楚の命に従わない
- 魯襄公五年前568年楚が令尹子辛を殺し子嚢を立て諸侯が陳を守るため城棣で会盟する
- 魯襄公七年前566年楚が陳を包囲し二慶の策で陳侯が会から逃げ帰る
魯襄公三年(前570年)
- 六月、襄公は単頃公および諸侯と会し、己未の日に雞澤で同盟した。楚の子辛は令尹となり、小国に対して欲深く振る舞っていた。陳の成公は袁僑を会に遣わして和を求めさせ、叔孫豹ら諸侯の大夫は陳の袁僑と盟約した。楚の司馬・公子何忌は陳が晋側についた(叛いた)ことを咎めて陳に侵攻した。
魯襄公四年(前569年)
- 春、楚軍はなお繁陽に留まっていた。韓献子はこれを憂い朝廷で「かつて周の文王は殷に叛いた国々を率いてなお殷に仕えたが、それは時機を弁えていたからだ。今われわれがこれを変えようとするのは難しい」と述べた。三月、陳の成公が薨じた。楚人は陳を攻めようとしたが喪に服して中止した。陳人は楚の命に従わなかった。臧武仲はこれを聞き、「陳が楚に服さなければ必ず滅びる。大国が礼を尽くしても服さぬ罪は大きいのに、小国であればなおさらだ」と評した。
魯襄公五年(前568年)
- 楚人は陳が離反したことを討伐の理由とし、令尹の子辛が欲深いことに由来するとして子辛を殺した。君子は、これによって楚共王が刑罰を正しく用いていないと評した。『詩経』に「周の道はまっすぐで私の心は明察である」とあるが、事を謀って成功せず、人心が定まらないなら信がないということであり、それでいて人を殺して事を済ませようとするのは道理に合わない、とされた(子辛は宋を攻め魚石を封じて盟約に背き、鄢陵で敗れ、子反・公子申・壬夫を殺して諸侯を従えようとしたとの注記)。『夏書』には「信を成せば功も成る」とある。
- 楚の子嚢が令尹となった。范宣子は「これで陳を失うことになる。楚人は離反者を討って子嚢を立てた以上、必ず態度を改めて陳を急ぎ討つだろう。陳は楚に近く、民も朝夕に切迫すれば救援に行かざるを得ない。しかし陳を得ることはわれらの本分ではない、手を出さぬのが良い」と述べた。冬、諸侯は陳を守るため駐屯し、子嚢は陳を攻めた。十一月甲午、城棣で会盟し陳を救援した。
魯襄公七年(前566年)
- 楚の子嚢は陳を包囲し、諸侯は鄬で会して陳を救おうとした。陳人は楚に通じる慶虎・慶寅を憂い、「公子黄を楚へ遣わし、彼を捕らえさせよう」と楚に持ちかけ、楚人はこれに従った。二慶(慶虎・慶寅)は会に赴いていた陳侯に「楚人は公子黄を捕らえました。君がお戻りにならなければ、群臣は社稷・宗廟を思い、他の道を選ぶかもしれません」と告げ、陳侯は会から逃げ帰った。