春秋左傳事類始末斉の国佐、慶克を殺し斉、国佐を殺す(齊國佐殺慶克齊殺國佐)
斉の慶克が声孟子と密通したことを国佐が咎めたことから対立が生じ、鮑牽の処罰・高氏の追放を経て国佐が慶克を殺害、さらに翌年斉侯が国佐を殺すに至る一連の政変。2年間の経緯を描く。
年表(2件)
- 魯成公十七年前574年国佐が慶克を殺し穀で叛くが斉侯と徐関で盟約し復権する
- 魯成公十八年前573年斉侯が国佐を殺させ国弱が魯へ亡命後に国氏を継ぐ
魯成公十七年(前574年)
- 斉の慶克は声孟子と密通し、女装して輦車に乗り閎から宮中に入っていた。鮑牽がこれを目撃し国武子(国佐)に告げた。国武子は慶克を呼んで咎めた。
- 慶克は声孟子に「国子が私を叱った」と告げ、夫人は怒った。国子は霊公を助けて会盟に赴き、高氏・鮑氏が留守を守っていたが、帰還の際、門を閉ざして出入りする者を検めさせた。夫人(声孟子)は「高氏・鮑氏は君を入城させず公子角を立てようとしている」と讒訴し、国子もこれを知った。
- 秋七月、鮑牽は足を切られ、高無咎は追放されて莒へ逃れた。高無咎の子・高弱は盧の邑にたてこもって背いた。斉人は鮑国を呼び戻して鮑氏の当主に立てた。かつて鮑国は施孝叔の家臣であったが、施氏が家宰を占ったところ匡句須が吉と出た。匡句須は鮑国に家宰の座を譲り、施孝叔が「お前が吉なのに」と言うと、匡句須は「忠良な人物と共に働けることこそ最大の吉です」と答えた。鮑国は施氏に忠実に仕えたため、斉人は彼を鮑氏の跡継ぎに選んだ。
- 孔子は「鮑荘子(鮑牽)の知恵は葵にも及ばない。葵でさえ自分の根を守ることができるのに」と評した。
- 斉侯は崔杼を大夫とし、慶克にこれを補佐させて軍を率い盧を包囲させた。国佐は諸侯とともに鄭を包囲していたが、困難を理由に帰国を願い出て帰り、そのまま盧へ赴いて慶克を殺し、穀の邑で背いた。斉侯は徐関で国佐と盟約を結び復権させた。十二月、盧は降伏し、国勝(慶克の子)を晋に遣わして事の次第を報告させ、清の地で命を待たせた(国勝は父の死を国佐に討たせようとしていたため、あえて国外に置かれたとの注記)。
魯成公十八年(前573年)
- 春、斉侯は士華免に命じ、戈で国佐を宮中の朝廷で殺させた。史書には「斉、その大夫国佐を殺す」と記され、国佐が使命を放棄して専断で人を殺し、穀で叛いたためとされる。清にいた国勝も殺された。国佐の子・国弱は魯へ亡命した。慶封が大夫となり、慶佐が司寇となった(両名は慶克の子)。斉侯の政局が落ち着いた後、国弱を国氏の後継とした。これは礼にかなうこととされた。