春秋左傳事類始末楚、陳の夏徴舒を殺す(楚殺陳夏徵舒)

陳の霊公が孔寧・儀行父とともに夏姫と淫行を重ね、諫めた洩冶を殺す。恥辱を受けた夏徴舒は霊公を弑して二人は楚に亡命する。楚荘王は陳を討って夏徴舒を殺し陳を県としたが、申叔時の諫めにより陳を国として復した。

年表(3件)

魯宣公九年(前600年)

  • 陳の霊公は孔寧・儀行父とともに夏姫と通じ、三人は夏姫の下着を身につけて朝廷でふざけあった。洩冶が「主君と卿が公然と淫行を行えば、民に示しがつきません。既に評判も悪くなっています。どうかお改めください」と諫めると、霊公は「改めよう」と答えたが、孔寧・儀行父の二人は洩冶を殺すよう願い出て、霊公はこれを止めなかった。結局洩冶は殺された。
  • 孔子はこれを評し、「『詩経』に『民の道が乱れているときに自ら規範を立てようとするな』とあるが、洩冶のことを言うのであろう」と述べた。

魯宣公十年(前599年)

  • 霊公は孔寧・儀行父と夏氏の家で酒を飲んだ際、行父に「徴舒(夏姫の子)はお前に似ている」と言うと、行父は「あなたにも似ています」と返した。徴舒はこれを恥辱と感じ、霊公が厩から出てきたところを射殺した。孔寧・儀行父の二人は楚へ亡命した。

魯宣公十一年(前598年)

  • 楚の荘王は陳を攻め、「陳の人々に動揺するな、罪は少西氏(夏徴舒の祖父の名にちなむ)だけを討つ」と告げて陳に入り、夏徴舒を殺して陳を県として楚の直轄とした。
  • このとき陳侯は晉におり、申叔時は斉への使者の任を終えて復命すると、そのまま退出した。王が「夏徴舒は主君を弑した。私は諸侯を率いてこれを討ち処刑した。諸侯も県公たちも皆私を祝ってくれたのに、お前だけは祝わない。なぜか」と咎めると、申叔時は「まだ申し上げてもよろしいでしょうか」と断って言った。
  • 「夏徴舒が主君を弑したのを討ち処刑したのは君の義にかないます。しかし、こういう譬えもあります。人の田を牛に踏ませた者から、その罰として牛そのものを取り上げるようなものだと。田を踏ませた者に罪はあっても、牛を取り上げるのはやり過ぎです。諸侯が従ったのは罪ある者を討つためであったのに、陳を県として併呑するのは、その富を貪ったことになります。罪を討つ名目で諸侯を集めておきながら、貪欲な結果に終わるのはよろしくないのではありませんか」。
  • 荘王は「よく言ってくれた。私はまだそこまで考えが及ばなかった。陳を元に戻してもよいか」と尋ね、申叔時は「よろしいでしょう。私どものような小人が言う『懐にいったん収めてからまた人に与える』というやり方です」と答えた。
  • こうして陳は再び国として封じられたが、各郷から一人ずつ人を連れ帰り、これを「夏州」と呼んだ。