春秋左傳事類始末晋楚、邲に戦う(晉楚戰于邲)

楚荘王が鄭を攻めて服属させ、これを救援に来た晉軍は先縠の独断や統率の乱れから邲で楚に大敗する。荀林父は責を負おうとするが士貞子に諫められ地位を保ち、後に先縠は敗戦の罪で誅殺される。捕虜となった知罃と楚王との問答や、晉が捕虜を交換する経緯まで、宣公六年から成公三年に至る一連の顛末を描く。

年表(9件)

魯宣公六年(前603年)

  • 楚人が鄭を攻め、和議を結んで引き上げた。

魯宣公七年(前602年)

  • 鄭は晉と和睦し、黒壤で盟った。周の王叔桓公がこれに立ち会い、両国の不和を調停した。

魯宣公九年(前600年)

  • 楚は先の厲の役の報復として鄭を攻めた。晉の郤缺が鄭を救援し、鄭伯は柳棼で楚軍を破った。
  • 国人は皆喜んだが、子良だけは「これは国の災いだ。私が死ぬのも遠くない」と憂えた。

魯宣公十一年(前598年)

  • 楚の荘王が鄭を攻め櫟に至った。子良は「晉も楚も徳によらず武力で争っている。来る者に従えばよい。晉にも楚にも信義がないのだから、我らに信義を求めても仕方ない」と述べ、楚に従うことにした。
  • 夏、楚は陳陵で盟い、陳・鄭が服属した。鄭はなお晉にも取り入ろうとした。

魯宣公十二年(前597年)

  • 楚の荘王が鄭を十七日にわたり包囲した。鄭では和議の占いは不吉と出たが、宗廟で哭き車を出す占いは吉と出た(遷都の準備を示す)。国人が大いに哭き、城を守る者も皆哭いた。楚は一旦兵を退いたが、鄭が城を修復して再び攻めたため、三月にこれを攻め落とした。
  • 楚軍が皇門より入城すると、鄭伯は肉袒し羊を牽いて出迎え、「私が天に見放され、君の怒りをこの国に招いた。これは私の罪です。ご命令のままに従いましょう」と述べた。楚の荘王は「その君主が人にへりくだることができるのなら、必ず民の信を得られよう」と述べ、三十里退いて和議を許した。潘尫が入って盟い、子良が人質として出された。
  • このとき晉の援軍が鄭に向かっていた。荀林父を中軍の将、先縠を佐とし、士会・郤克、趙朔・欒書、趙括・趙嬰齊、鞏朔・趙穿、荀首・趙同、韓厥らがそれぞれ軍の要職についていた。黄河に至り、鄭が既に楚と和したと聞いて、桓子(荀林父)は「鄭のために民を疲弊させる必要はない。楚が引き上げてから動けばよい」と引き返そうとしたが、随武子(士会)は「軍を用いるには機を見て動くべきで、楚は徳・刑・政・事・典・礼のいずれも整っており敵し難い。今回の遠征も罪ある者を討ち、屈服した者を赦すという道理にかなっている」と楚の統治の見事さを説き、戦うべきでないと論じた。
  • しかし先縠(彘子)は「晉が覇を保ってきたのは軍と将の力による。諸侯を失えば力とは言えず、敵を前に退けば武とは言えない。退くくらいなら死んだ方がましだ」と独断で中軍の一部を率いて渡河した。知荘子(知罃)は『周易』の卦を引いて「命令に従わない軍は必ず敗れる。先縠がその咎を負うだろう」と予言した。韓献子は「先縠一人の罪にするより全軍で進む方がよい」と桓子に勧め、結局全軍が渡河した。
  • 楚の荘王も北へ軍を進め、令尹の孫叔敖は「戦いを避けるべきだ」と反対したが、寵臣の伍参は晉軍の内情(将は不慣れで先縠は剛愎不仁、命令が統一されていない)を説いて開戦を勧め、荘王もこれに従い北上した。晉軍は敖・鄗の間に布陣した。
  • 鄭の皇戌は晉軍に、楚軍は連勝しておごり油断していると告げ、挟撃を勧めたが、晉軍内の意見は割れた。先縠らは強硬論、欒武子(欒書)は楚の強さと自軍の非を説いて反対、趙括・趙同は交戦を主張するなど統率が乱れた。
  • 楚も少宰を遣わして和平を打診し、いったんは盟約の日取りまで決まったが、先縠が使者に無礼な返答をさせ、事態を悪化させた。両軍から挑発の使者(楚の許伯・樂伯・攝叔、晉の魏錡・趙旃)が行き交い、趙旃はさらに夜襲まがいの行動で楚軍を刺激した。
  • 楚の荘王自ら出陣し、晉軍は大混乱に陥った。荀林父は統制を失い「先に渡った者に賞を与える」と太鼓を打ったため、中軍・下軍は先を争って舟に群がり、舟にしがみつく者の指を切り落とすほどの惨状となった(切り落とされた指が舟の中に掬えるほどあったという)。上軍のみ士会・郤克の指揮で整然と退き無事であった。
  • 楚は晉の知罃(知荘子の子)を捕らえ、連尹襄老を射殺してその屍と楚の公子穀臣を得て凱旋した。潘党は戦勝記念に敵の屍で「京観」を築くよう勧めたが、荘王は「武」の字は「戈を止める」の意であり、真の武徳とは暴を禁じ兵を収め民を安んじることにあると述べ、これを退けた。
  • 秋、晉軍は帰国した。桓子(荀林父)は敗戦の責を負って死を願い出たが、士貞子が「城濮の戦いの後も文公は敵将が生きている間は憂いを解かなかった。今回の敗戦も日食のようなもので、光そのものを損なうものではない」と諫め、晉侯はこれに従い桓子の地位を元に戻した。

魯宣公十三年(前596年)

  • 秋、赤狄が晉を攻めたが、これは先縠が誘い込んだものであった。晉は邲の敗戦と清の役の罪を先縠に帰し、これを殺してその一族を滅ぼした。君子は「災いは自ら招くもの、これは先縠のことを言うのだ」と評した。

魯宣公十四年(前595年)

  • 夏、晉侯は邲の敗戦の雪辱として鄭を攻め、諸侯に布告して軍を閲兵させてから引き上げた。これは中行桓子の計略で、軍の統制ぶりを示して諸侯に働きかけさせる狙いであった。鄭はこれを恐れ、楚への人質を子良から子張に代えた。

魯宣公十五年(前594年)

  • 荀林父が赤狄を曲梁で破り潞を滅ぼした。晉侯は桓子に狄の捕虜千戸を、士伯には𤓰衍の県を与え、「私が狄の地を得たのはあなたの功による。あなたがいなければ私は桓子を失っていただろう」と述べた。
  • 羊叔職はこの褒賞について、『周書』の「庸庸祗祗(功ある者を用い、敬うべき者を敬う)」の精神にかなうものであり、周の文王が周を興したのもこの道によったと評し、『詩経』の「陳錫哉周(広く恵みを施して周を興した)」の句を引いた。

魯成公三年(前588年)

  • 晉は楚の公子穀臣と連尹襄老の屍を楚に返し、知罃(荀罃)との交換を求めた。荀首(知罃の父)がこのとき中軍の佐であったため、楚はこれを許した。
  • 楚王は知罃を送り出す際、「私を恨むか」と尋ねた。知罃は「両国が戦い、私に才がなく捕虜となったまでで、恨む理由はありません」と答えた。「では私に感謝するか」と問われても、「両国はそれぞれ自国の安寧を図って捕虜を交換したにすぎず、誰に感謝すべきこともありません」と答えた。「帰ったら何で報いるか」との問いにも「恨みも徳もないので報いようがありません」と述べたが、なお問われて、「君の恩により晉に骨を埋められれば、我が君が私を処刑しても本望です。もし恩赦により父の元へ帰され、いずれ軍を率いて国境を守る任に就いたなら、たとえ貴国と再び相まみえても二心なく力を尽くすのみです。これが私の報いです」と答えた。楚王は「晉とは争い難い」と言い、厚く礼を尽くして知罃を帰国させた。
  • 知罃が楚に囚われていた間、鄭の商人が彼を袋に隠して脱出させようと計画していたが、実行前に楚が知罃を釈放してしまった。その後この商人が晉に赴くと、知罃は彼が本当に自分を助け出してくれたものと思い厚遇したが、商人は「私にその功はない。君子を欺くわけにはいかない」と辞退し、斉へ去った。