春秋左傳事類始末晋、赤狄を滅ぼす(晉滅赤狄)
赤狄がたびたび晉を攻めるが、晉は民を疲弊させて罪を重ねさせた上で討つ策をとる。郤成子は衆狄を和睦させて晉に服属させ、伯宗の進言により晉は潞子を虐げた酆舒を討って潞を滅ぼし、士会がさらに甲氏・留吁・鐸辰を滅ぼす。約20年をかけて赤狄を平定した経緯を描く。
年表(7件)
- 魯宣公六年前603年赤狄が晉を攻め中行桓子が疲弊を待って滅ぼす策を説く
- 魯宣公七年前602年赤狄が晉に侵攻し向陰の穀物を奪う
- 魯宣公十一年前598年郤成子が衆狄と和睦し衆狄が晉に服属する
- 魯宣公十三年前596年赤狄が再び晉を攻める
- 魯宣公十五年前594年伯宗の進言で晉が潞を討ち荀林父が曲梁で破り潞を滅ぼす
- 魯宣公十六年前593年士会が赤狄の甲氏・留吁・鐸辰を滅ぼし中軍の将となる
- 魯成公八年前583年晉が趙同・趙括を討つ
魯宣公六年(前603年)
- 秋、赤狄が晉を攻めた。晉侯がこれを討とうとすると、中行桓子(荀林父)は「民を疲弊させて罪を重ねさせ、その上で滅ぼせばよい」と言った。『周書』に「戎殷を殪す」とあるのはこのような場合を言うのだ、と。
魯宣公七年(前602年)
- 赤狄が晉に侵攻し、向陰の穀物を奪った。
魯宣公十一年(前598年)
- 晉の郤成子(郤缺)が衆狄との和睦を求めた。衆狄は赤狄に酷使されたことを恨んでおり、晉に服属した。
- 秋、櫕函で会盟し、衆狄が服属した。この時、大夫たちは狄をも会盟に招こうとしたが、郤成子は「徳がなければ勤勉であるべきであり、勤勉でなければどうして人を得られようか。勤勉であればこそ後継が続く」と述べ、『詩経』に「文王でさえ勤勉であった。まして徳の薄い自分たちはなおさらだ」とあるのを引いて従わせた。
魯宣公十三年(前596年)
- 秋、赤狄が晉を攻めた。
魯宣公十五年(前594年)
- 潞子嬰兒の夫人は晉の景公の姉であったが、酆舒が政をとり彼女を殺し、さらに潞子の目を傷つけた。晉侯がこれを討とうとすると、大夫たちは皆「酆舒には三つの優れた才があるので後の機会を待つべきだ」と言った。
- しかし伯宗は「必ず討つべきだ。狄には五つの罪がある。祭祀を絶やしたこと、酒を貪ったこと、賢人の仲章を退けて黎氏の地を奪ったこと、我が伯姫を虐げたこと、その君主の目を傷つけたことである。優れた才があっても徳を育てないのであれば、罪を増すだけだ。後継者が敬んで徳義を守り神と人に仕えるようになれば、天命はいっそう固まる。どうして待つ必要があろうか。才と衆に頼るのは滅びの道であり、商の紂王がその例である。天が時に逆らえば災いとなり、地が物の道理に逆らえば妖異となり、民が徳に逆らえば乱となる。乱があれば妖災が生じる。狄にはこれらがすべて備わっている」と述べ、晉侯はこれに従った。
- 六月、晉の荀林父が赤狄を曲梁で破り、辛亥の日に潞を滅ぼした。晉侯は趙同を遣わして狄の捕虜を周に献じさせたが、その態度が不敬であった。劉康公は「十年を経ずして趙同(原叔)には必ず大きな禍いがあろう。天が既にその魂魄を奪っている」と評した。
魯宣公十六年(前593年)
- 晉の士会が軍を率いて赤狄の甲氏・留吁・鐸辰を滅ぼし、三月に狄の捕虜を献じた。晉侯は周王に願い出て、戊申の日に黻冕をもって士会を中軍の将とし、あわせて大傅とした。
- これにより晉国の盗賊は秦へ逃げ去った。羊舌職は「禹は善人を称え、不善の者を遠ざけたと聞く。それはこのことを言うのだ。『詩経』に『戦々兢々として深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し』とあるのは、善人が上にあることを言う。善人が上にあれば国に幸いにも罪を免れる民はいなくなる。諺に『民に幸いが多いのは国の不幸である』というのも、善人がいないことを言うのだ」と述べた。
魯成公八年(前583年)
- 晉は趙同・趙括を討った。