春秋左傳事類始末楚、若敖氏を滅ぼす(楚滅若敖氏)

楚の若敖氏の子越椒は生来凶暴と見抜かれていたが、令尹子文の没後に一族の実権を握り、蔿賈らを殺して専横を強め、ついに王を攻めるに至る。楚子は皐滸で若敖氏を討ち滅ぼしたが、子文の孫克黄は君命を全うして帰国し、王に赦されて家系を存続させた。

年表(3件)

文公九年(前618年)

  • 冬、楚子は越椒を魯へ聘問に遣わしたが、幣を捧げる態度が傲慢であった。叔仲恵伯はこれを見て「これは必ず若敖氏の宗族を滅ぼすことになる、先祖の霊もこの無礼を加護すまい」と評した。

宣公二年(前607年)

  • 夏、晋の趙盾は諸侯の軍を率いて鄭を侵した。楚の闘椒(子越)は鄭を救おうとし、「諸侯の盟主たろうとしながら、その苦難を厭うわけにはいかない」と述べて鄭に駐屯し晋軍を待った。趙盾は「あの一族(若敖氏)は楚の中で競り合い、すでに滅びに近づいている、しばらく彼らの災いを増しておくのが得策だ」と述べて軍を退いた。

宣公四年(前605年)

  • はじめ楚の司馬子良に子の越椒が生まれた際、子文は「必ず殺すべきだ。この子は熊虎の相貌に犲狼の声、殺さねば若敖氏を滅ぼすことになる。諺に『狼の子は野性を持つ』というが、まさにこの子は狼だ、育ててよいものか」と述べたが、子良は聞かなかった。子文はこれを深く憂い、死に臨んで一族を集め「越椒が国政を握れば速やかに逃げよ、災いに巻き込まれるな」と告げ、涙して「鬼もなお食を求めるもの、若敖氏の霊が飢えることのないように」と述べた。
  • 令尹子文が没すると闘般が令尹、子越(越椒)が司馬、蔿賈が工正となった。蔿賈は子揚(闘般)を讒言して殺させ、子越が令尹、蔿賈自身が司馬となった。子越はさらに蔿賈を憎み、若敖氏の一族を使って伯嬴(蔿賈)を轑陽に幽閉して殺した。
  • その後、烝野に陣を敷いて王を攻めようとした。王は三人の王子を人質として差し出したが、子越はこれを受け入れず、漳澨に軍を進めた。
  • 秋、楚子は若敖氏と皐滸で戦った。伯棼(闘椒)は王の車を射て、轅を打ち鼓の柎に当てて丁寧(鉦)に命中させ、さらに矢を放って轅を貫き笠轂まで達した。楚軍は恐れて退いたが、王が軍中を巡り「先君が息を克服した時に得た矢は三本、伯棼はすでに二本を使った、もう矢は尽きたはずだ」と告げ、太鼓を鳴らして進撃させ、若敖氏を滅ぼした。
  • そもそも若敖は䢵の女性を娶り闘伯比を生んだ。若敖が没すると伯比は母方の䢵で育てられ、䢵子の娘と密通して子文をもうけた。䢵夫人はこれを恥じ子文を沢に捨てさせたが、虎が乳を与えて育てた。䢵子が狩りでこれを見て恐れて帰り、夫人が事情を告げたため引き取らせた。楚人は乳を与えることを「榖」、虎を「於菟」と呼ぶことから、この子は「闘榖於菟」と名付けられた。䢵子は娘を伯比の妻とし、伯比はのちの令尹子文である。
  • 子文の孫箴尹克黄は斉への使者からの帰途、宋で若敖氏滅亡の乱を聞いた。従者は「都に戻ってはならない」と勧めたが、克黄は「君命を棄てて誰がこれを受けようか、君は天のようなもの、天から逃れられようか」と述べて帰国し、復命した後、自ら司敗(法官)に出頭した。王は子文が楚国を治めた功を思い、「子文の家系が絶えては善を勧める道が立たない」として克黄を元の地位に復させ、名を「生」と改めさせた。