春秋左傳事類始末晋、霊公を弑す(晉弑靈公)

楚が晋の幼君に乗じて鄭・陳・宋への圧力を強める一方、晋では霊公の無道が募り、趙盾の諫言を疎んじて刺客鉏麑や猛犬を差し向けるが失敗。趙穿が桃園で霊公を弑し、太史董狐が「趙盾その君を弑す」と記録した顛末を描く。文公九年から宣公二年に至る。

年表(8件)

文公九年(前618年)

  • 楚の范山が楚子に「晋君は幼く、諸侯も北方に心を寄せていない。今が好機だ」と進言した。楚子は狼淵に出兵し鄭を伐った。鄭は楚と講和した。
  • 秋、楚の公子朱が陳を伐ったが陳人に敗れた。陳はこれを機に楚との講和を恐れた。

文公十年(前617年)

  • 秋、陳侯・鄭伯が息で楚子と会見した。冬、蔡侯も加わり厥貉に駐屯し、宋を伐とうとした。宋の華御事は「楚は我々を弱めようとしている、自ら進んで従えば誘われずに済む。民に罪はない」と述べ、楚子を出迎え労い命に従った。
  • 楚子は孟諸で狩りを行い、宋公を右盂、鄭伯を左盂とし、期思公復遂を右司馬、子朱・文之無畏を左司馬とした。早朝出発の命に宋公が違反したため、無畏はその御者を鞭打って見せしめとした。ある者が子舟(無畏)に「国君を辱めてはいけない」と言うと、子舟は「職務を行うのに何の遠慮がいろうか。詩に『剛にも屈せず柔にも流されぬ』とある。法を曲げず私情を交えないのが正道、死を惜しんで職務を乱してよいものか」と答えた。

文公十四年(前613年)

  • 新城で同盟が結ばれ、楚に従っていた国々もこれに服した。

文公十五年(前612年)

  • 新城の盟に蔡人が参加しなかったため、晋の卻缺は上軍・下軍を率いて蔡を伐った。「君主が幼弱だからと油断してはならない」と述べ、蔡に入り城下の盟を結んで帰還した。
  • 秋、斉人が魯の西方国境を侵したため、季文子が晋に報告した。冬、晋侯・宋公・衛侯・蔡侯・陳侯・鄭伯・許男・曹伯が扈で盟し斉討伐を謀ったが、斉人が晋侯に賄賂を贈ったため討伐は成らず撤退した。斉侯は魯の西鄙を侵し、諸侯を無力だと嘲った。さらに曹を伐ちその外郭に入り、曹が魯に朝見したことを咎めた。
  • 季文子は「斉侯は災いを免れまい。自らは無礼でありながら礼のある者を討ち、『なぜ礼を行うのか』と咎めるのは、天に逆らいながら人を討つに等しい。『詩』に『なぜ互いに畏れ合わないのか、天を畏れないからだ』とあり、君子が幼く卑しい者を虐げないのは天を畏れるからだ。周頌にも『天の威を畏れてこそ国を保てる』とある。天を畏れずに何を保てよう。乱をもって国を得ながら礼を守ってすら終わりを全うするのは難しいのに、無礼を重ねては続くまい」と評した。

文公十六年(前611年)

  • 春、斉と講和した。

文公十七年(前610年)

  • 晋侯は黄父で閲兵を行い、扈で諸侯を再び会盟させた。晋侯は鄭伯に会わず、鄭が楚に二心を抱いていると見なした。
  • 鄭の子家は使者を通じて趙宣子(趙盾)に書簡を送り、こう訴えた——鄭穆公の即位以来、蔡侯を伴い晋に仕えようとしたが侯宣多の乱で果たせず、乱を鎮めたのちに蔡侯とともに朝見したこと、太子夷を陳侯のために楚へ遣わし朝見させたこと、その後も陳・蔡が楚に近いため二心を持てず、たびたび晋へ朝見・使者を送り続けてきたこと(鄭穆公即位以来の対晋朝貢の経緯が年次を追って列挙されている)、それでもなお晋は満足せず、鄭のような小国にはもうこれ以上尽くしようがないこと。「首を畏れ尾を畏れれば身に余す所などない」「鹿は死に際して逃げ場所を選ばない」という言葉のように、小国が大国に仕えるのは、徳があれば人として仕え、徳がなければ鹿のように追い詰められて険しきに走るしかなく、命の窮まりを悟れば亡びを覚悟して全軍を挙げて鯈で待つほかない、という内容であった。
  • 晋の鞏朔は鄭と講和し、趙穿・公壻池を人質とした。

宣公元年(前608年)

  • 宋人が昭公を弑した件(文公十六年のことという注)を受け、晋の荀林父は諸侯の軍を率いて宋を伐ち、宋は晋と講和した。また扈で諸侯と会し魯のために斉を討とうとしたが、皆賄賂を得て撤退した。鄭穆公は「晋は頼むに足りぬ」と述べ、楚と盟を結んだ。
  • 陳共公が没した際(文公十三年のことという注)、楚人は礼を尽くさなかったため、陳霊公は晋と盟を結んだ。秋、楚子は陳を侵し、さらに宋を侵した。晋の趙盾は軍を率いて陳を救い、宋と棐林で会し鄭を伐った。この頃晋侯は驕り、趙宣子(趙盾)がしばしば諫めても聞き入れられず、晋は楚に対抗できなくなった。

宣公二年(前607年)

  • 鄭の公子帰生は楚の命を受け宋を伐った。宋の華元・楽呂がこれを防いだが、2月、大棘で戦い宋軍は敗れ、華元は捕らえられ楽呂は討ち取られ、戦車460乗を得、250人を捕虜とし100人の首級を挙げた。狂狡は鄭人を井戸に落としたが、戟を逆さにして引き上げてやったところ、逆にその鄭人に捕らえられてしまった。君子は「礼を失い命に背いたのだから捕虜になって当然だ。戦の道は敵を殺し切ることが果、その果を貫くことが毅であり、これを易えれば戮を招く」と評した。
  • 開戦前、華元は羊を屠って兵を饗したが、御者の羊斟には分け与えなかった。開戦後、羊斟は「先日の羊の話はあなたの裁量だったが、今日の戦は私の裁量だ」と言って戦車を鄭軍の中へ乗り入れ、宋軍は敗れた。君子は「羊斟は人にあらず、私怨によって国を敗り民を殺す、これ以上の大罪があろうか。『詩』の言う『不良の者』とはまさに羊斟のことだ、民を損なって快とするとは」と評した。
  • 宋人は戦車百乗と文馬百駟を贈って華元を鄭から贖おうとしたが、半分を渡したところで華元は逃げ帰った。帰国して城門の外に立ち、報告してから入城した。門外で御者の叔牂(羊斟)を見つけると「お前の馬のせいか」と問い、叔牂は「馬のせいではない、人のせいです」と答えて宋から出奔した。
  • 宋が城を築く際、華元がその監督(植)となったが、工事の者たちは「目を剥き腹を突き出し、鎧を捨てて頬髭を蓄えたその男よ」と歌って揶揄した。参乗の者が「牛にも皮がある、犀や兕もまだ多い、鎧を捨てたとて何ほどのことか」と伝えると、人夫は「皮があっても、丹や漆で仕上げる材料はどうするのか」と問い返した。華元は「もう構うな、彼らの言い分は多勢、こちらは少数だ」と述べて立ち去らせた。
  • 晋の趙盾は諸侯を率いて鄭を侵し、大棘の戦いに報いた。
  • 晋の霊公は無道で、重税を課して壁を彩色し、台上から人に弾き玉を放ってその避ける様を楽しんだ。料理人が熊の掌の料理を生煮えのまま出すと、これを殺した。趙盾・士季はこれを憂い、士季がまず諫めることにし、「私が諫めて聞かれなければ、あなたが続けてください」と述べた。三度進んで庭に至るまで霊公は見向きもしなかったが、最後に「過ちは分かった、改めよう」と述べた。士季は稽首して「過ちを改めるほど善きことはない。『詩』にも『初めはあれど終わりを全うする者は少ない』とあります。過ちを補えれば社稷は堅固になります」と答えた。
  • しかし霊公は改めず、趙盾がしばしば諫めるのを疎んじ、鉏麑に暗殺を命じた。鉏麑は早朝、趙盾の寝所へ赴くと、盛装のまま朝廷へ出仕しようと仮眠していた趙盾を見て、「恭敬を忘れぬ者は民の主というべきだ。民の主を殺すのは不忠、君命を捨てるのも不信。いずれかを犯すよりは死ぬ方がましだ」と嘆き、槐の木に頭をぶつけて自死した。
  • 秋、晋侯は趙盾を酒宴に招き、伏兵で襲おうとした。護衛の提弥明がこれに気づき、「臣下が君主の宴で三杯を超えるのは礼に反する」と趙盾を促して退出させた。晋侯が猛犬獒をけしかけると、提弥明はこれを殴り殺した。趙盾は「人を捨てて犬を用いるとは、猛くとも何になろう」と述べつつ脱出したが、提弥明はその場で討ち死にした。
  • かつて趙盾が首山で狩りをした際、翳桑で飢えた霊輒に出会い、事情を尋ねると「3日間食べていない」と言うので食べさせたところ、半分を残した。理由を問うと「仕えて3年、老母の安否が分からず、これを届けたい」と答えたので、全部食べさせた上で別に食糧を用意して持たせてやった。
  • のちに霊輒は霊公の甲士となっており、戟を逆さに構えて霊公の兵を防ぎ趙盾を逃した。理由を尋ねると「翳桑で飢えていた者です」と答え、名を告げずに立ち去りそのまま姿を消した。
  • 趙穿は桃園で霊公を討った。趙盾はまだ国境の山を越えぬうちに引き返した。太史(董狐)は「趙盾その君を弑す」と記録し朝廷に示した。趙盾が「そうではない」と言うと、太史は「あなたは正卿でありながら、亡命しても国境を越えず、帰っても賊を討たない、あなた以外の誰の罪であろうか」と答えた。
  • 趙盾は「ああ、私を思う情がかえって我が身に憂いをもたらしたとは、まさにこのことだ」と嘆いた。孔子はこれを評し、「董狐は古の良史である、書法を隠さなかった。趙宣子も古の良大夫である、法のために悪名を受けた、惜しいことだ。国境を越えていれば免れられたものを」と述べた。
  • 趙盾は趙穿に命じ、周にいた公子黒臀を迎え入れて即位させた。