春秋左傳事類始末穆伯、莒の巳氏の妻に従う(穆伯從巳氏於莒)

魯の公孫穆伯が莒の戴己・声己を娶り文伯・恵叔をもうけるが、襄仲のために迎えた新婦を自ら娶ったことで一族と不和になり、莒への出奔を繰り返す。文伯・恵叔の後継争いと死、遺された二子が孟献子に慕われながらも讒言を避けて戦死するまでの14年間。

年表(5件)
  • 文公元年叔服が穆伯の二子(榖・難)の将来を人相見で予言する
  • 文公七年穆伯が莒の戴己・声己を娶り、後に声己を娶ろうとして襄仲と不和になる
  • 文公八年穆伯が周への弔問途上で恐れをなし莒の声己のもとへ出奔する
  • 文公十四年文伯が復帰した穆伯に代わり後継となるが、まもなく穆伯は再び出奔、文伯は死に恵叔が継ぐ
  • 文公十五年穆伯が死に恵叔らが喪に服し、穆伯の莒の二子が後に戦死する

文公元年

  • 僖公が葬られた。周王は叔服を遣わして葬儀に会した。公孫穆伯(公孫敖)は叔服が人相を見る力があると聞き、自分の二人の子を会わせた。叔服は「榖は将来あなたを養う相があり、難は将来あなたを弔い葬る相がある。榖は下顎が豊かで、必ず魯国に後裔を残すだろう」と評した。

文公七年

  • 穆伯は莒の戴己を娶り文伯(榖)を、その妹の声己は恵叔(難)を生んだ。戴己が没した後、再び莒に求婚したが、莒人は声己を惜しんで断り、代わりに襄仲が声己を娶ることになった。
  • 冬、莒人が盟いを求め、穆伯が莒に赴いて盟い、あわせて襄仲のために新婦を迎えたが、その美しさに惹かれ自ら娶ってしまった。襄仲は穆伯を討つよう求め、公も許そうとしたが、叔仲恵伯が「兵が内で起これば乱、外で起これば寇となる。寇はまだ他人に及ぶだけだが、乱は自らに及ぶ。臣が乱を起こし君がそれを止めなければ、外敵を招くことになる」と諫め、公はこれを止めた。恵伯の仲裁により襄仲は事を収め、公孫敖は新婦を返し、兄弟の仲は元に戻った。

文公八年

  • 周の襄王が崩じ、穆伯は弔問のため周へ向かったが、途中で恐れをなして引き返し、莒へ亡命して声己のもとへ走った。

文公十四年

  • 穆伯が声己のもとに走っていた間、魯人は文伯(榖)を後継に立てた。穆伯は莒で二子をもうけ、文伯の地位を復させるよう求め、襄仲は朝廷に出ず命に従うことを条件に許した。ところが復帰後三年も経たぬうちに、穆伯は再び莒へ出奔した。
  • 文伯は病に倒れ、「榖の子はまだ幼い、難(恵叔)を立ててほしい」と願い、許された。文伯は斉で没し、その死が報じられた。恵叔は(穆伯を招いての)葬儀を願ったが許されず、卿の礼をもって葬ることのみが許された。

文公十五年

  • 斉人のある者が孟氏のために「魯はあなた方の親族、棺を飾って堂阜に置けば魯は必ず引き取るだろう」と献策し、その通りにした。卞の人がこれを恵叔に告げると、恵叔はなお喪に服す姿のまま朝廷に立ち、命を待って願い出て許された。棺を引き取って殯(もがり)を行い、共仲(慶父、罪により格を下げて葬られた例)に準じた葬礼とした。
  • 襄仲は穆伯の喪に哭さないつもりでいたが、恵伯(叔彭生)は「喪は親族関係の締めくくりである。始めが善くなくとも、終わりを善くすることはできる。史佚の言葉に『兄弟は互いに美事を助け、困窮を救い、慶事を祝い、災いを弔い、祭祀を敬い、喪を哀しむ』とある。情の厚薄はあっても、親愛の道を絶やしてはならない。あなたに落ち度はない、何を人に怨むことがあろうか」と諭し、襄仲はこれに従い兄弟を率いて哭いた。
  • 後年、穆伯が莒で生んだ二子が魯に来ると、孟献子(榖の子・仲孫蔑)は彼らを愛し、それが国中に知られた。ある者が「孟献子を殺そうとしている」と讒言し、献子はこれを季文子に告げた。二子は「あの方は我らを愛したことで知られ、我らが彼を殺したことで知られては、礼から遠く外れることになる。それよりは死んだ方がましだ」と述べた。後に一人は句鼆の城門で、一人は戻丘の城門で、それぞれ敵の攻撃を防いで戦死した。