春秋左傳事類始末周王、衛侯を釈放する(王釋衞侯)

晋に攻められた衛侯が国外に出て楚・陳へ亡命し、元咺が叔武を奉じて国を守るが讒言により叔武が誤殺される。衛侯は晋との争訟に敗れて周に幽閉されるが、毒殺未遂を経て周王に許され、帰国後に元咺らを殺して復位するまでの経緯。

年表(2件)

僖公二十八年(前632年)

  • 晋侯が衛を攻めると、衛侯は盟いを求めたが晋人は許さなかった。衛侯は楚に付こうとしたが国人はこれを望まず、君を国外に出して晋に取り入ろうとした。衛侯は襄牛に出た。
  • 衛侯は楚軍が敗れたと聞いて恐れ、楚へ亡命し、さらに陳へ移り、元咺に叔武(夷叔)を奉じさせて盟いを受けさせた。
  • ある者が衛侯に「元咺は叔武を君に立てた」と讒言し、衛侯の子・角が公に従っていたため、公は角を殺させた。元咺は君命に背かず、夷叔を奉じて国を守った。
  • 六月、晋人は衛侯を復位させ、寗武子は衛人と宛濮で盟った。盟辞は「天が衛国に禍し君臣が不和となったが、今は心を降して互いに従うべきである。国に留まる者・出る者が互いに支え合い、この盟に背けば神と先君がこれを誅する」というものであった。国人はこの盟いを聞いて二心を抱かなくなった。
  • 衛侯は予定より早く帰国した。叔武はちょうど沐浴中で、君の到着を喜び髪をつかんで走り出たところ、前駆の兵に誤って射殺された。公はその無実を知り、その股に枕して哭いた。元咺は晋へ亡命した。
  • 冬、衛侯は元咺と晋で争訟した。寗武子が衛侯の補佐、鍼莊子が代理出廷者、士栄が裁判官を務めた。衛侯は敗訴し、士栄は処刑され、鍼莊子は足切りの刑を受けた。寗俞は忠義により罪を免れた。衛侯は捕らえられて周の都に送られ、深い部屋に幽閉されたが、寗俞は職務として食糧を届けた。元咺は衛に帰り、公子瑕を君に立てた。

僖公三十年(前630年)

  • 晋侯は医師の衍に命じて衛侯を毒殺させようとしたが、寗俞は医師に賄賂を贈って毒を薄めさせ、衛侯は死ななかった。衛侯は周王と晋侯にそれぞれ玉十觳を献じて助命を求め、王はこれを許して衛侯を釈放した。
  • 衛侯は周歂・冶厪に「もし我を復位させれば卿の位を与える」と持ちかけた。周歂・冶厪は元咺および公子適・公子儀(瑕の同母弟)を殺した。
  • 衛侯は帰国して先君を祀った。周歂はすでに朝服を整え卿を拝命しようとしていたが、城門に至って病に倒れ死んだ。冶厪はこれにより卿の位を辞退した。