春秋左傳事類始末晋、恵公・懐公の敗亡(晉惠懐之敗)
秦の支援で即位した晋の恵公(夷吾)が恩人里克を誅殺し、秦への約束を反故にして韓原の戦いで秦に捕らえられるが穆姫の嘆願で帰国、その後太子圉が人質先の秦から逃げ帰り、恵公没後の懐公も亡命者を弾圧して人心を失い、重耳が入国して懐公を討つまでの経緯。僖公九年から二十四年(前651〜前636年)の16年間。
年表(10件)
- 僖公九年前651年卻芮が夷吾に秦への贈賄を勧め、秦の穆公が夷吾の人柄を疑う
- 僖公十年前650年晋侯(夷吾)が即位し里克を誅殺、㔻鄭ら里克派も殺される
- 僖公十一年前649年晋侯が周の爵命を怠慢に受け内史過に将来を危ぶまれる
- 僖公十三年前647年晋の飢饉に秦が穀物を送る(汎舟の役)
- 僖公十四年前646年秦の飢饉に晋が穀物を拒み、慶鄭が諫める
- 僖公十五年前645年韓原の戦いで晋侯が秦に捕らえられ、穆姫の嘆願で帰国が決まる
- 僖公十七年前643年太子圉が秦へ人質に送られる
- 僖公二十二年前638年太子圉が秦から一人で逃げ帰る
- 僖公二十三年前637年恵公没し懐公が即位、亡命者を弾圧し狐突を殺す
- 僖公二十四年前636年重耳が晋に入り懐公を討つ
僖公九年(前651年)
- 晋の卻芮は公子夷吾(のちの恵公)に、秦へ手厚く贈賄して帰国の助けを求めるよう勧めた。斉の隰朋も軍を率いて秦軍とともに夷吾の擁立に加わった。秦の穆公が卻芮に「公子は誰を頼みとしているか」と問うと、「亡命者に味方はいない、味方があればかえって敵を生む」と答えた。夷吾の人柄について公孫枝に問うと、「道理に則る者だけが国を定められる。夷吾の言葉には人を疑い妬む調子が多く、そこが危うい」と評した。穆公は「猜疑や怨みが多いほど、こちらにとっては御しやすく利になる」と考えた。
僖公十年(前650年)
- 周の公忌父・王子党が斉の隰朋と共に晋侯(夷吾)を立てた。晋侯は自分を助けた里克を、後ろめたさから誅殺しようとし、使者に「お前がいなければ私はここにいない、しかしお前は二人の君主と一人の大夫を弑した、その主君であるのは難しい」と伝えさせた。里克は「廃立がなければ即位もない、罪をこじつければ言い訳は要らぬということだ」と答えて自刃した。
- 㔻鄭は秦に使いし、恵王改葬の礼に遅れたことを詫びた帰途、亡くなった太子(申生)の霊に出会う。太子は「夷吾は無礼者、天帝に願い出て晋を秦に与え秦に祀らせることにした」と告げたが、㔻鄭は「神は同族でない者の祭祀は受けず、民は同族でない者を祀らない、それでは君の祭祀も絶えてしまう」と諫めた。太子は改めて七日後に会おうと約束し、その通り現れて「天帝は罪ある者を罰することを許した、韓で敗れるだろう」と告げた。
- 㔻鄭は秦に赴き、呂甥・卻称・冀芮が晋侯に従っていないと告げ、召喚して除けば重耳を立てられると進言した。しかし卻芮は「贈り物が豊かで言葉が甘いのは誘いだ」と見抜いて㔻鄭・祁挙および七輿大夫ら里克派を殺した。逃れた㔻豹は秦に、晋侯が民の支持を失っていることを告げ討伐を促したが、穆公は「民に罪はない」として応じなかった。
僖公十一年(前649年)
- 周の召武公・内史過が晋侯に爵命の玉を授けた際、晋侯が受け取る態度が怠慢だったため、内史過は「晋侯には後継が続かないだろう、礼を軽んじれば秩序も乱れる」と王に報告した。
僖公十三年(前647年)
- 晋が飢饉に見舞われ秦に穀物を求めた。秦の子桑は「厚い恩を返さねば民が離反し敗れる」と献策し、百里奚も「天災は互いに助け合うのが道」と説いた。㔻豹は晋討伐を勧めたが、穆公は「君主が悪くとも民に罪はない」として、雍から絳まで船で穀物を運び続けた(汎舟の役)。
僖公十四年(前646年)
- 秋、沙鹿山が崩れ、卜偃は「一年のうちに大きな災いが起き、国が滅びかねない」と占った。冬、秦が飢饉となり晋に穀物を求めたが、晋は拒んだ。慶鄭は「恩を仇で返し、隣国の災いを喜び、施しを惜しみ、隣を怒らせるのは四つの徳をすべて失う行為」と諫めたが、虢射は「恩を売っても得にならない、与えぬ方がよい」と反対した。慶鄭は重ねて「信を捨て隣を裏切れば孤立し滅びる」と警告した。
僖公十五年(前645年)
- 晋侯即位の際、秦の穆姫は公子たちの帰国を条件としたが、晋侯はこれを守らず、また秦の中大夫への賄賂の約束も、河外の五城を秦に割譲する約束も反故にした。晋が飢えれば秦は穀物を送ったが、秦が飢えても晋は穀物を送らなかったため、秦は晋を討った。
- 占いでは、渡河した秦軍の戦車が壊れる兆しが出たが、卜徒父は「これは大吉、三度敗れても最後には晋君を捕らえる」と判じた(蠱の卦)。
- 晋侯は迎撃にあたり、乗り慣れない秦産の馬を用いたため、慶鄭は「異国の馬は戦場で怖じ気づき制御できなくなる」と諫めたが聞かれなかった。実際に戦の直前、晋侯の戎馬は泥にはまって動けなくなった。韓簡は「秦軍は数こそ少ないが、我らは秦の恩を三度受けながら報いていないから闘志が高い」と分析し、晋侯は「一人にできることを国ができぬはずがない」と強気に開戦した。
- 韓原の戦いで、晋侯の馬車が動かなくなり慶鄭を呼んだが、慶鄭は「諫めを聞かず占いにも背いた自業自得だ」と助けず立ち去った。晋侯は秦に捕らえられた。晋の大夫たちは喪に服する姿で秦軍に従い、穆公は「私が西へ来たのも晋の妖夢が示す通りの成り行きにすぎない」と述べ、大夫たちは天地の見ている前での寛大な処置に感謝した。
- 秦の穆姫は晋侯の身を案じ、子どもたちと共に薪の上に立って服喪の意を示し、「両君が玉帛でなく戦を交えるに至った、晋君が朝入城するなら私は夕に死ぬ」と告げた。大夫たちは晋侯を秦都に入れるよう求めたが、穆公は「晋の憂いは我々の重荷にもなる、恩讐を重ねれば禍が続く」として晋侯を帰す決断をした。公子縶は殺害を、子桑は太子を人質に取り和議を結ぶことを勧め、穆公はこれに従った。
- 晋侯は卻乞を通じて瑕呂飴甥を召し、子金に言葉を教えさせ、国人に君命として恩賞を告げさせた。呂甥は民の労苦を思いやり、征繕を整えて諸侯に弱みを見せぬことを説き、これにより爰田の制・州兵の制が始まった。
- かつて晋の献公が娘の伯姫を秦に嫁がせる際の占いでは、帰妹が睽に之く不吉な卦が出て、後年の破局と穆姫の苦難を予兆していたとされる。恵公自身も、先君がこの占いに従っていれば今の苦境はなかったと語った。韓簡はこれに対し「亀甲は象、蓍は数を示すもの、徳の乱れが積もれば数を尽くしても意味がない」と論じた。
- 十月、晋の陰飴甥は秦伯と王城で盟った。秦伯が「晋国は和しているか」と問うと、飴甥は「小人は君を失った悲しみから戦支度も辞さぬ構え、君子は君の罪を知りつつも恩に報いる覚悟」と答え、秦伯は「国は君をどう見ているか」と重ねて問うた。飴甥は「小人は帰らぬと思い、君子は必ず帰ると信じている」と答え、秦伯はこの言葉に感じ入り晋侯を丁重に扱うこととした(改館、七牢の饋)。
- 蛾析は慶鄭に逃げるよう勧めたが、慶鄭は「君を敗北に陥れておきながら死なず、また処罰も免れるのは臣として恥ずべきこと」として拒んだ。十一月、晋侯は帰国すると慶鄭を殺した。この年も晋は飢饉に見舞われ、秦は再び穀物を送った。穆公は「その君は憎んでも、民や後継には期待できる」と述べた。
僖公十七年(前643年)
- 夏、晋の太子圉が秦に人質として送られ、秦は河東の地を返し娘を娶らせた。恵公が若い頃、梁伯の娘を娶り生まれたのが圉と妾で、名付けにまつわる占いの逸話が語られる。
僖公二十二年(前638年)
- 圉は秦から逃れ帰ろうとし、妻の嬴氏を誘ったが、嬴氏は「あなたは晋の太子でありながら秦で屈辱を受けている、帰りたいのは当然だが、私はあなたの世話をする役目で嫁いだ身、共には行けない、ただし告げ口もしない」と答えた。圉は一人で逃げ帰った。
僖公二十三年(前637年)
- 秋、晋の恵公が没した。跡を継いだ懐公は亡命者の帰国を禁じ、期限を過ぎても従わない者は許さぬとした。狐突の子二人が重耳に従い秦にいたため、懐公は狐突を捕らえ「息子を呼び戻せば許す」と迫った。狐突は「子には忠義を教えるのが父の務め、すでに重耳に仕えると誓った以上、呼び戻せと言うのは二心を教えることになる」と拒み、殺された。卜偃はこれを聞き、病と称して出仕せず、「己が明らかでないのに人を殺して意を通そうとするのはうまくいかない、徳を示さず殺戮ばかりでは先が知れる」と評した。
僖公二十四年(前636年)
- 春、公子重耳が晋に入り、懐公を高梁で討った。