春秋左傳事類始末共仲、子般を弑し閔公を立てる(共仲弑子般立閔公)

荘公の死後、共仲(慶父)が叔牙を除き子般・閔公を相次いで弑逆し、季友が僖公を立てて共仲を自死に追い込むまでの魯の内乱。莊公三十二年から僖公元年(前662〜前659年)。

年表(4件)

莊公三十二年(前662年)

  • 荘公が病に伏し、後継者を叔牙に問うと「慶父は器量がある」と答え、季友に問うと「命に代えても子般をお守りします」と答えた。荘公は「先ほど叔牙は慶父を推した」と季友に伝えると、季友は僖叔(叔牙)を鍼巫氏のもとに待たせ、鍼季に毒酒を持たせて「これを飲めば魯国での子孫の祭祀は続く、さもなくば子孫も絶える」と伝えさせた。叔牙はこれを飲み、帰路の逵泉で死に、叔孫氏の家系(子孫の祭祀)が立てられた。
  • 八月、荘公が薨去し子般が即位した。共仲(慶父)は圉人犖に命じて子般を党氏の家で殺害させた。季友は陳へ亡命し、閔公が立てられた。

閔公元年(前661年)

  • 荘公の夫人が齊侯と落姑で盟い、季友の召還を求めた。齊侯はこれを許し陳から召還、公は郎で季友を待った。冬、齊の仲孫湫が魯を訪れ内乱を視察し、帰国して「慶父を除かねば魯の難は終わらない」と報告した。齊侯が「魯を奪えるか」と問うと、仲孫は「まだ不可。魯はなお周礼を守っている、周礼は国の根本、根本が保たれている間は動かせない。難が続けば慶父は自ら滅びる、君は魯の難が収まるのを待ち、親しみを結んで礼を重んじ、堅固なものとは連携し、離反しやすいものにはつけ込み、混乱した国は覆す、それが覇王の道具だ」と答えた。

閔公二年(前660年)

  • 秋、共仲は卜齮に命じて公を武闈で殺害させた。季友は僖公を奉じて邾へ逃れ、共仲は莒へ亡命した。季友は魯に入って僖公を立て、賂を送って莒に共仲の引き渡しを求め、莒人はこれに応じた。共仲は密の地で公子魚(季友)に面会を求めたが拒まれ、泣きながら向かうと、共仲は「(外で聞こえるのは)奚斯の声だな」と悟り、首を吊って死んだ。
  • 閔公は哀姜の妹・叔姜の子であり、齊人が彼を擁立していた。共仲は哀姜と密通し、哀姜も閔公殺害を望み事情を知っていたため、事件後は邾へ出奔したが、齊人はこれを捕らえて夷の地で処刑し、遺骸を魯に送った。僖公は願い出てこれを葬った。
  • 季友の誕生に際し、荘公は卜楚丘の父に占わせたところ「男子で名は友、公の右腕となり両社(周社・亳社、朝廷の意)の間で公室を支える。ただし季氏が絶えれば魯も栄えない」と出た。さらに蓍占いでは大有が乾に変ずる卦で「父と共に敬われる」と出た。生まれた子の手には「友」の文字があり、それにちなんで命名された。

僖公元年(前659年)

  • 冬、莒人が季友を得るための賂を求めてきたが、公子友はこれを酈で撃退した。荘公(僖公)は季友に汶陽の田と費の地を賜った。

(篇末に次章の見出しとして「閔公」の文字がある)