春秋左傳事類始末申公の鬭班、子元を殺す(申公鬭班殺子元)
楚の令尹子元が文夫人への横恋慕を恥じて鄭を攻めるが撤退、その後王宮に居座ったため申公の鬭班に殺され、鬭穀於菟が令尹となる経緯。莊公二十八・三十年(前666〜前663年)。
年表(2件)
- 莊公二十八年(前666年)子元が文夫人への恥から鄭を攻めるが諸侯の救援で撤退
- 莊公三十年(前663年)申公の鬭班が子元を殺害、鬭穀於菟が令尹となる
莊公二十八年(前666年)
- 楚の令尹子元は文王の未亡人(文夫人)を誘惑しようと、宮殿の傍らに館を建てて万舞を演じさせた。夫人は涙して「先君はこの舞を戎に備える訓練として用いた。今、令尹はこれを仇討ちに用いず、未亡人の傍らで演じるとは、何と道理に外れたことか」と嘆いた。侍者がこれを子元に伝えると、子元は「婦人ですら復讐を忘れていないのに、私は忘れていた」と恥じ、六百乗の兵を率いて鄭を攻めた。諸侯は鄭を救援し、楚軍は夜のうちに撤退した。
莊公三十年(前663年)
- 子元は鄭討伐から帰還後も王宮に居座った。申公の鬭班が子元を殺害し、鬭穀於菟が令尹となり、自らの家財を投げ打って楚国の危難を救った。