春秋左傳事類始末斉軍、郕を囲む(齊師圍郕)
齊の内乱(襄公弑殺、公孫無知の簒奪と誅殺)を経て桓公が即位、管仲を宰相に登用するまでの経緯と、長勺・乾時・郎の戦いを描く。桓公八年から十三年(前704〜前681年)にわたる。
年表(10件)
- 桓公八年(前704年)魯齊が郕を包囲し降す、荘公は徳を修めるべしと答える
- 桓公八年(前704年)連称・管至父の反乱計画、公孫無知が与する
- 桓公八年(前704年)齊侯が徒人費に殺害され、公孫無知が立つ
- 桓公八年(前704年)公子小白と公子紏がそれぞれ莒・魯へ亡命
- 桓公九年(前703年頃)公孫無知が雍廩に殺される
- 桓公九年(前703年頃)桓公(小白)が莒から先に入国、乾時の戦いで魯が敗れる
- 桓公九年(前703年頃)公子紏が殺され、管仲が齊に送られ桓公が宰相に登用
- 桓公十年(前702年頃)長勺の戦い、曹劌の献策で齊軍に大勝
- 桓公十年(前702年頃)郎の戦い、公子偃の奇襲で宋軍を大破
- 桓公十三年(前699年頃)柯で荘公と齊侯が会盟、齊との和睦が成る
桓公八年(前704年)
- 魯と齊の連合軍が郕を包囲すると、郕は齊に降伏した。仲慶父は齊を討つよう荘公に進言したが、荘公は「我が徳が足りないゆえの罪であり、齊を責められない。夏書に『皐陶が徳を推し広めれば徳は行き渡る』とある。まず自らの徳を修めて時を待とう」と答え、君子はこれを称えた。
- 齊侯(襄公)は連称・管至父に葵丘の守備を命じ、瓜の時期に交代を約束したが、期限が来ても交代させず、二人は謀反を企てた。僖公の弟の子である公孫無知は襄公に優遇されていたが、後に格下げされ、二人と結んだ。
- 齊侯が貝丘で猟をした際、大猪(公子彭生の亡霊とされる)に驚き車から落ちて足を負傷し、履を失った。履を管理していた徒人費を鞭打ったことから費は恨みを抱き、賊に襲われた際に手引きして齊侯を殺害させた。石之紛如・孟陽らも死に、公孫無知が齊侯に立った。
- 鮑叔牙はかねて政情不安を見抜き、公子小白(のちの桓公)を莒へ、管夷吾・召忽は公子紏を魯へ亡命させていた。公孫無知は雍廩を虐げたため、九年に雍廩に殺された。
桓公九年(前703年頃)
- 魯は公子紏を齊に入れようとしたが、桓公(小白)が莒から先に入国した。齊魯両軍は乾時で戦い魯軍が敗れ、荘公は乗り換えて逃げ帰った。鮑叔の軍が来て、魯に公子紏の殺害と管仲・召忽の引き渡しを要求。紏は生竇で殺され、召忽は殉死、管仲は囚われて齊に送られた。齊の高傒の勧めで桓公は管仲を宰相に登用した。
桓公十年(前702年頃)
- 齊軍が魯を攻めた。曹劌は戦の見通しを問い、荘公が「衣食を独占せず分け与える」「祭祀を偽らない」と答えても十分でないとし、「訴訟を誠意をもって裁く」との答えを得て初めて「戦える」と認めた。長勺の戦いで曹劌は太鼓を三度鳴らすまで攻撃を待たせ、齊軍の敗走を見極めてから追撃を許可し、大勝した。曹劌は「一度目の太鼓で士気が満ち、二度目で衰え、三度目で尽きる」という理と、伏兵を恐れて轍と旗を確認してから追ったことを説明した。
- 同年夏、齊・宋の連合軍が郎に布陣した。公子偃は宋軍の乱れを見て独断で虎皮をかぶり奇襲し、乗丘で宋軍を大破、齊軍も撤退した。
桓公十三年(前699年頃)
- 荘公は柯で齊侯と会盟し、齊との和睦が成った。