春秋左傳事類始末楚の屈瑕、師を敗る(屈瑕敗師)

楚の莫敖・屈瑕は鬬廉の夜襲策で鄖軍を蒲騷で破り、絞も伏兵の策で降す。しかし桓公十三年、羅への遠征では驕りから備えを怠って大敗し、莫敖は荒谷で縊死、楚子は自らの責として将帥たちを赦した。桓公十一年(前701年)から十三年にかけての楚の対外戦を描く。

年表(3件)

桓公十一年(前701年)

  • 楚の屈瑕(莫敖)が貳・軫との盟約に向かおうとしたところ、鄖人が蒲騷に陣を敷き、隨・絞・州・蓼と共に楚軍を攻めようとした。莫敖はこれを憂いた。
  • 鬬廉は「鄖人は郊外に布陣しているが油断しているはずで、隣国四邑の来援を待っているに過ぎない。主君は郊郢に留まり四邑への備えとし、我らは精鋭で夜襲をかければ、鄖は城を頼みに戦意を欠く軍になる。鄖軍を破れば四邑も離散する」と献策した。
  • 莫敖が王への増援要請を提案すると、鬬廉は「軍は和にあって数によらない、商が周に敗れたのはその例。既に整った軍で出陣した以上、増援など要らない」と答えた。莫敖が占いを求めると、鬬廉は「占いは疑いを決するためのもの、疑いがなければ占う必要はない」と退けた。
  • 楚は蒲騷で鄖軍を破り、盟約を果たして帰還した。

桓公十二年(前700年)

  • 楚が絞を攻め、その南門に布陣した。莫敖は「絞は小国で軽率、策も浅い」として、薪取りの兵をあえて護衛せず絞を誘い出す策を献じ、これに従った。
  • 絞人は楚の三十人を捕らえ、翌日には楚の労役者を山中で追い立てたが、楚は北門に伏兵を置いて山下から挟撃し、絞を大いに破って城下の盟を結び引き上げた。
  • この絞討伐の役では楚軍が彭で分かれて渡河し、羅人がこれを討とうとして伯嘉に偵察させ、三度にわたり楚軍の数を数えさせた。

桓公十三年(前699年)

  • 楚の屈瑕が羅を攻めた。鬬伯比が見送った後、御者に「莫敖はきっと敗れる、歩き方が高慢で心が定まっていない」と語り、楚子に増援の派遣を進言した。
  • 楚子が夫人の鄧曼に相談すると、鄧曼は「大夫(鬬伯比)の言うのは兵の数のことではなく、君主が民を信で慰撫し、役人を徳で導き、莫敖には刑罰で臨むべきだということだ。莫敖は蒲騷の勝利に驕り自分の判断のみで動こうとするだろうから、羅を侮り備えを怠るはず。君主が役人を集め徳をもって諭し、莫敖には天が容易に許さぬ道理を説くべきだ、でなければ楚軍が総力を挙げて出陣していることを莫敖が知らぬはずがない」と答えた。
  • 莫敖は軍中に「諫言する者は処罰する」と布告し、鄢に至ると隊列を乱して渡河し、備えを怠ったまま羅に至った。羅と盧戎の両軍に大敗し、莫敖は荒谷で縊死し、将帥たちは冶父に幽閉され処罰を待った。
  • 楚子は「これは自分の罪だ」として皆を赦した。