春秋左傳事類始末曲沃、晋を併呑する(曲沃并晉)
晋の穆侯が兄を「仇」、弟を「成師」と名付けたことに師服は乱の兆しを予言する。以後、分家の曲沃が力を増して晋の本家を圧倒し、桓叔・荘伯・武公と三代にわたり弑逆と攻伐を重ねた末、桓公二年(前710年)から莊公十六年(前678年)にかけて曲沃の系統がついに周王に晋侯として認められるに至る。
桓公二年(前710年)
- 晋の穆侯の夫人姜氏は條の役の際に長子を生み「仇」と名付け、弟は千畝の戦いの際に生まれ「成師」と名付けられた。
- 家臣の師服は、名付けの不吉さを指摘した。名は義を規定し、義は礼を生み、礼は政を体現し、政は民を正すものであるのに、良縁を「妃」、怨恨を「仇」と呼ぶ古来の慣わしに反し、兄を「仇」、弟を「成師」と名付けたことは早くも乱の兆しであり、兄(の家系)はいずれ取って代わられるだろうと予言した。
史論(師服・命名の乱)
- 名は義・礼・政・民を貫くものであるのに、兄を「仇」、弟を「成師」と名付けたことは既に乱の兆しであり、兄の系統がいずれ弟の系統に取って代わられると予言した。
魯惠公二十四年
- 晋がこの頃から乱れ始め、桓叔が曲沃に封じられた。
史論(師服・本末の制)
- 師服は、国家は本(宗家)が大きく末(分家)が小さいのが常道であり、天子は国を建て、諸侯は家を立て、卿は側室(庶子)に官を置き、大夫には貳宗(次子の系統)を持たせ、士には隷属する子弟を、庶民・工商にはそれぞれの分に応じた身分秩序があってこそ民が上に服し下に望みを抱かぬのだと述べ、晋は本来周の甸侯に過ぎないのに分家(曲沃)を大きく立ててしまい、本家が弱体化した以上長続きしないだろうと論じた。
魯惠公三十年
- 晋の潘父が昭侯を弑して桓叔を迎えようとしたが失敗し、晋人は孝侯を立てた。
魯惠公四十五年
- 曲沃の荘伯が翼を攻めて孝侯を弑した。翼の人々は孝侯の弟・鄂侯を立て、鄂侯は哀侯を生んだ。
桓公三年(前709年)
- 曲沃の武公(桓叔の孫、荘伯の子)が翼を攻め、翼侯を汾隰まで追い、その車の驂馬が木に絡まって止まったところを夜になって捕らえた。
桓公七年(前705年)
- 冬、曲沃伯が晋の小子侯(哀侯の子)を誘い出して殺した。
桓公八年(前704年)
- 冬、周王は虢仲に命じて晋の哀侯の弟・緡を晋に立てさせた。
莊公十六年(前678年)
- 冬、周王は虢公を遣わし、曲沃伯に一軍を率いる権限を認めて晋侯とした。