蜀鑑蜀漢の蔣琬・費禕、蜀を保つ(蜀漢蔣琬費禕保蜀)

諸葛亮の死後、蔣琬・費禕が蜀を保った延熙元年(238年)から、姜維が沓中に退く景耀五年(262年)までの二十五年間。蔣琬は漢中から涪へ退いて涼州経略を構想し、費禕は曹爽の駱谷来攻を興勢で防いで撃退したが、費禕は漢寿で暗殺される。以後は姜維が主導し、狄道・洮西で王経を大破する一方、鄧艾・陳泰にたびたび阻まれて段谷・侯和で敗れた。史論は、姜維が漢中の囲の守りを捨てて漢寿に退いたことが蜀滅亡の因だと難ずる。

年表(19件)

後主延熙元年(238年)

  • 大将軍蔣琬が漢中に出て駐屯した。丞相諸葛亮の死からこの年で五年である。

延熙五年(242年)

  • 将軍姜維が漢中から引き揚げ、涪県に駐屯した。

延熙六年(243年)

  • 大司馬蔣琬が漢中から涪へ引き揚げて留まり、王平に漢中の防衛を任せた。
  • これに先立ち蔣琬は、諸葛亮がたびたび秦川に出撃しながら輸送が続かず成果を挙げられなかったことを踏まえ、船を多数造って漢水・沔水を東へ下り魏興・上庸を襲おうと考えた。しかし持病が重くなって出発できず、蜀の人々の中には、失敗した場合に帰路が険しく妙策とはいえないと危ぶむ声もあった。
  • 後主が費禕・姜維らを遣って意向を質すと、蔣琬は上言した。魏は九州にまたがり速やかに志を得られる相手ではないから、分断し蚕食してその支党をくじくべきである。涼州は異民族と辺塞の要地で進退の資となり、羌胡は漢を渇望している。姜維を涼州刺史とし、姜維が出征して河西を抑えるなら自分は軍を率いて後詰めとなろう。涪は水陸四通の地で急に応じやすく、東北に事あっても駆けつけるのは難しくない、として涪への移駐を請い、認められた。姜維も移駐し、蔣琬は漢中から涪に退いて留まったが病は重くなり、漢中太守の王平に漢中の防衛を委ねた。
  • 呉では歩隲・朱然が呉王に上疏し、蜀から帰る者は皆、蜀が盟約に背いて魏と通じようとしていると言う、蔣琬は漢中を守りながら司馬懿が南へ向かったと聞いても虚に乗じて出兵し掎角の勢をなさず、かえって漢中を捨てて成都近くに退いた、事は明白で疑う余地がないから備えをすべきだ、と述べた。

史論(論曰)

  • 蔣琬が南鄭を捨て病と称して涪に屯したのは遠謀を欠く措置で、攻めるに足りないばかりか守るにも足りない。漢水・沔水に乗じて漢中を回復し涼州を保って氐羌を使役するという構想も、結局は空言に終わった。蜀が振るわなかったのは蔣琬の罪である。

延熙七年(244年)

  • 魏の大将軍曹爽が駱谷から漢中に向かい、将軍王平が興勢で防ぎ、大将軍費禕が救援に赴いて魏軍は退き、費禕は成都に帰還した。
  • 曹爽は西の長安に至って十万余の兵を発し、夏侯玄とともに駱谷から漢中に入った。漢中の守兵は三万に満たず、諸将は恐れて城に籠もり涪の援軍を待とうとした。
  • 王平は、漢中から涪まで千里近くあり、敵に関を取られれば大禍になるとして、まず劉敏を興勢に据え、自分は後詰めとなり、敵が黄金へ分進すれば千人を率いて自ら下って当たる、その間に涪の軍も到着する、これが上策だと説いた。
  • 王平は前軍を率いて興勢に拠り、旗を多く立てて百余里にわたり連ねた。費禕が諸軍を督して漢中を救援し、曹爽の軍は興勢に阻まれて進めず、涪の軍と費禕の軍が続いて到着したため撤退した。費禕は進んで三嶺を押さえて曹爽の退路を断ち、曹爽は険を争って苦戦しやっと通過したものの損害は甚だしく、関中はそのために疲弊した。

延熙八年(245年)

  • 大将軍費禕が漢中に赴き、防衛線の陣営を巡視した。

延熙九年(246年)

  • 費禕が成都に帰還した。大司馬蔣琬が没した。

延熙十年(247年)

  • 雍州・涼州の羌胡が魏に叛いて漢に降り、姜維が兵を率いて隴右に出てこれに呼応した。

延熙十一年(248年)

  • 大将軍費禕が漢中に出た。

延熙十二年(249年)

  • 衛将軍姜維が雍州を攻めたが陥とせず引き揚げた。
  • 姜維は雍州に至り麴山に拠って二城を築き、句安・李歆らに守らせた。魏の郭淮・陳泰が防ぎ、陳泰は、麴城は堅固だが蜀からは険しく遠いので輸送路を断てば血を流さずに奪えると説いた。
  • 陳泰は徐質・鄧艾を率いて麴城を包囲し、輸送路と城外の流水を断った。句安らは戦いを挑んだが応じられず、将兵は困窮して糧を分け雪を集めて日を稼いだ。
  • 姜維が救援に出て牛頭山に拠り陳泰と対峙すると、陳泰は、戦わずして敵を屈させるのが上策であり、牛頭を断てば姜維は退路を失って捕虜同然だとして、郭淮に牛頭へ急行して退路を断つよう伝えた。郭淮は洮水へ進軍し、姜維は恐れて逃走、孤立した句安らは降伏した。
  • 鄧艾は白水の北に留まって屯した。姜維が廖化を白水の南に遣って鄧艾と向き合う位置に陣を張らせると、鄧艾は諸将に、姜維は必ず東に回って洮城を襲うと見抜いた。洮城は水の北にあり鄧艾の陣から六十里。鄧艾は夜のうちに軍を潜行させて先に到着し城を押さえたので、姜維が渡って来ても敗れずに済み、漢軍は引き揚げた。

延熙十三年(250年)

  • 姜維が再び西平に侵入したが陥とせなかった。

延熙十四年(251年)

  • 大司馬費禕が漢寿に出て駐屯した。

延熙十五年(252年)

  • 賊が漢寿で大司馬費禕を殺害した。
  • 姜維が隴右に出師した。

延熙十六年(253年)

  • 姜維が出師して狄道を包囲した。
  • 姜維は自ら西方の風俗に通じていると考え、才略と武勇を恃んで羌胡を誘い味方につけ、隴以西は切り取って領有できると考えていた。かねて大挙出兵を望んでいたが費禕が常に抑えて許さず、費禕の死後にようやく志を行い、数万を率いて狄道を囲んだ。魏の司馬師が郭淮・陳泰に防がせ、姜維は兵糧が尽きて退いた。

延熙十七年(254年)

  • 姜維が隴西に出師して狄道・河間・臨洮の三県を抜き、その住民を綿竹・繁県に移住させた。
  • 狄道の長である李簡が密書を送って漢に降ることを願い出た。六月、姜維は隴西に出て狄道から進み河間・臨洮を抜いた。魏の徐質が姜維と戦って将軍張嶷を討ち取り、漢軍は引き揚げた。

延熙十八年(255年)

  • 姜維が出師して狄道に至り、魏将の王経と戦って大破した。王経は狄道城に退いて守り、姜維は鍾題に駐屯した。
  • 姜維は数万を率いて枹罕に至り狄道へ向かった。魏の陳泰は王経に狄道へ進駐し自軍の到着を待って東西で挟撃するよう命じ、自らは陳倉へ進軍した。しかし王経の統べる諸軍は故関で漢軍と戦って利あらず、王経は洮水を渡って姜維と洮西で戦い大敗し、一万余で狄道城に退いて守った。
  • 姜維が進んで囲むと、鄧艾と陳泰が力を合わせて防いだ。陳泰は諸将に説いた。姜維が兵を率いて深く侵入した以上まずその鋭気をくじくべきで、王経が戦ったのは敵の思う壺だった。王経が破れて逃げた今、姜維が兵を東に進めて櫟陽の穀倉を押さえ、兵を放って降人を集め羌胡を招き、東に関隴を争って四郡に檄を飛ばせば我らにとって最悪だが、勝ちに乗じた兵を堅城の下で消耗させ、孤軍が遠く離れて糧も続かないのだから、これは我らが敵を破る好機である、と。
  • 陳泰は進軍して高城嶺を越え、ひそかに夜間に狄道東南の高山へ達し、盛んに烽火を挙げ鼓角を鳴らした。姜維は救援の急な到着を予期せず、山伝いに急攻して交戦したが敗走し、鍾題に退いて駐屯した。

延熙十九年(256年)

  • 姜維が出師して祁山を攻め上邽へ向かい、鄧艾と戦って敗れた。
  • 姜維が鍾題にいたとき、鄧艾は言った。洮西の敗戦は小さな損失ではない。今、敵は船で進み我は陸軍で、労逸が同じでない。狄道・隴西・南安・祁山はそれぞれ守りを置かねばならず、敵は一点に集中し我は四つに分かれる。敵が南安・隴西から来れば羌の穀で食をまかない、祁山へ向かえば千頃の熟麦が外部の倉庫となる。敵には狡猾な計略があり必ず来る、と。
  • 姜維は衆を率いて祁山に出たが鄧艾がすでに備えていると聞き、西へ董亭から南安へ向かった。鄧艾は武城山に拠って防ぎ、姜維は険を争って勝てず、その夜に渭水を渡り東の山伝いに上邽へ向かった。鄧艾は段谷で戦い大破した。

延熙二十年(257年)

  • 姜維が駱谷に出て芒水に軍を進めた。
  • 姜維は魏が関中の兵を分けて淮南に向かわせたと聞き、虚に乗じて秦川に向かおうと数万を率いて駱谷から沈嶺に至った。当時、長城には穀物の蓄えが多く、鄧艾が進軍してこれを押さえ姜維を防いだ。姜維は芒水に塁を築いてしばしば挑戦したが、鄧艾は応じなかった。

景耀二年(259年)

  • 漢中を督する胡済が漢寿に屯し、将軍王含が楽城を、護軍蔣斌が漢城を守った。
  • もともと昭烈帝は魏延を漢中に鎮させ、防衛線の各囲に兵を実らせて外敵を防いだ。姜維が実権を握ると、各囲に分散して守るのは敵を防げても大きな戦果は得られないとし、兵を収め穀を集めて漢城・楽城の二城に退き、敵を平地に入れないようにし、なお重要な関を厳重に守って選び取る策を建議した。敵が関を攻めて陥とせず、千里の輸送に自然と疲れて引き揚げるところを、諸城の兵が力を合わせて叩けば敵を殲滅できるというので、後主はこれに従った。

史論(論曰)

  • 蜀の門戸は漢中だけであり、漢中の要害は漢・魏の時代でいえば陽平だけである。武侯が蜀を用いたときは陽平の囲みの守りを固めた上で二城を分置し、前後の備えを厳重にした。守っては敵に隙をうかがわせず、攻めては敵に防ぎようがなかった。敵が虎のように恐れたのはそのためである。
  • ところが姜維が漢寿に退き屯したのは、漢中の備えを取り払って危険な僥倖の策を採ったもので、根本がまず崩れてしまった。
  • のちに鍾会が漢中へ長駆して入ったとき、守る者は一人もおらず敵はやすやすと志を得た。鄧艾が江油に出るまでもなく蜀はすでに支えきれなかったのであり、識者を待つまでもなく明らかである。姜維が蜀を滅ぼしたというべきで、危ういことであった。

景耀五年(262年)

  • 姜維が洮陽に出師し、鄧艾と戦って侯和で敗れ、沓中に退いて駐屯した。