蜀鑑光武、隴を得て蜀を望む(光武得隴望蜀)
建武八年(32年)から翌年にかけて、光武帝が隴右の隗囂を破り、その勢いで蜀を望むまで。来歙が略陽を奇襲して落とすと隗囂は全力で奪回を図り、公孫述も李育・田弇を援軍に出したが及ばなかった。帝は自ら高平まで出て竇融の来朝を受け、呉漢・岑彭らが西城と上邽を囲む。隗囂が病死し子の純が降ると、来歙・蓋延は河池・下弁で王元の蜀軍を破ったが、来歙は王元の放った刺客に殺された。
年表(2件)
- 建武八年32年来歙が略陽を奪い、帝の親征で隗囂は西城へ逃れ諸将に囲まれる
- 隗囂の死と隗純の降伏(32-)33年隗純が天水で降り、来歙は河池を破ったのち刺客に殺される
建武八年(32年)
- 来歙が隗囂を討ち、略陽を落とした。
- 隗囂が略陽を包囲し、公孫述は将の李育・田弇を送って援けた。
- 夏四月、帝は自ら隗囂を征討して高平に至り、河西の竇融が来朝した。
- 隗囂は妻子を連れて西城へ逃れた。
- 呉漢・岑彭が西城を囲み、耿弇・蓋延が上邽を囲んだ。九月乙卯、帝は宮に還った。
隗囂の死と隗純の降伏(32-33年)
- 隗囂が病死し、子の純が跡を継いだ。
- 帝は来歙に諸将を統べさせて長安に駐屯させ、隗純を天水に討ち、十月にこれを攻め破った。純は降伏した。
- 公孫述が王元に河池を守らせたが、来歙・蓋延が進撃して大いに破り、下弁を落とした。
- 来歙が刺客に殺された。