蜀鑑漢の高帝、蜀漢より三秦を定む(漢髙帝由蜀漢定三秦)
漢元年(前206年)、沛公が漢王となって巴・蜀・漢中を領し南鄭に都を置いてから、同年秋に三秦の一つ雍を平定するまで。項羽を攻めようとした漢王を蕭何が諫めて漢中で力を蓄えるよう説き、張良は桟道を焼いて東進の意思なきを示させた。韓信を大将とし、蕭何が巴蜀の租税で軍糧を支え、故道から出て陳倉・好畤に章邯を破る。高帝自身は蜀の地を踏まなかったが、兵糧も精兵も巴蜀のものであり、ここから王業が成った。
年表(1件)
- 漢元年春正月前206年漢王となって南鄭に都し、韓信を大将として故道から出て雍を平定する
漢元年春正月(前206年)
- 沛公が漢王となり、巴・蜀・漢中を領して南鄭に都を置いた。
- 漢王は項羽を攻めようとしたが、蕭何が諫めた。漢中の王で終わるのは不本意でも死ぬよりはましであり、「天漢」という称号は名として美しい。まず漢中で民を養い賢人を集め、巴・蜀の力を用いて三秦を平定すれば、そこから天下を狙えると説いた。
- 漢王は張良を通じて項伯に厚く贈り物をし、漢中の地をすべて求めた。項王はこれを許した。
- 漢王は杜の南から蝕中に入った。張良は褒中まで見送り、桟道を焼き切るよう勧めた。
- 漢王は南鄭に着き、韓信を大将に任じた。
- 漢王は蕭何を残して巴・蜀の租税を集めさせ、軍の食糧に充てた。秋八月、故道から兵を出して雍を襲い、章邯は陳倉で迎え撃って敗走、好畤で再び戦って敗れ、雍の地は平定された。
史論(論曰)
- 高帝は漢中にとどまったのち間もなく矛先を返して関中へ向かった。自身は蜀の地を踏んでいないが、運んだ兵糧は巴蜀のものであり、敵陣を破ったのは巴渝の精兵であった。
- 故道を通り陳倉で戦って雍を定め、そこから王業が成った。蜀から兵を出しては中原を取れない、などと誰が言えようか。