編者按
- 忠武の南征の事は宇宙に輝き古今に二つとないのに、陳氏(陳壽)の記述は甚だ簡略で、冏伯が恨んだ通りである。他の伝や裴松之注、常璩『華陽國志』に散見する分は『武侯全書』がすでに採り尽くしている。
- ただし各地の郡邑の記載や、昔今の見聞は別に「遺事」に入れられていて調べにくい。そこで整理して併せ、南征に関わる事はすべてここに属させ、一つにまとめて大観を成すこととした。
建興元年(223年) 南中の叛乱
- 夏、牂牁太守の朱褒が郡を擁して反した。これより先、益州郡の大姓雍闓が反いて太守の張裔を呉へ流し、越巂の夷帥高定もまた叛いた。丞相亮は大喪の直後なので兵を加えず、巴西の龔禄を安上県に住まわせて遥かに郡従事を領させた。
- (常璩『南中志』より)先主の崩後、越巂の夷帥高定元が郡将軍の焦璜を殺し、郡を挙げて王を称して叛いた。益州の大姓雍闓もまた太守の正昂を殺し、代わりに蜀郡の張裔が太守となった。闓は鬼神の託宣を偽って「張裔府君は瓠壺のようなもので、外は艶があっても中身は粗い。今は殺すに足りぬ」と言い、縛って呉に送った。
- (同)蜀郡の常頎が部を巡察し、都護李嚴の書をもって闓を諭したところ、闓は「天に二日なく、土に二王なし。今、天下は分かれて正朔は三つある。どれに帰すべきか分からぬ」と答えた。その傲慢さはこの通りである。頎が牂牁に至って郡の主簿を捕らえて訊問すると、朱褒は頎を殺して乱を起こした。
- (同)益州の夷の多くは闓に従わなかったので、闓は建寧の孟獲に夷の長老たちを説かせ、「官府は胸元まで真っ黒な烏犬三百頭、蟎の脳三斗、長さ三丈の木材三千枚を取り立てようとしている。用意できるか」と言わせた。夷はもっともだと思ってみな闓に従った。斵木は堅剛だが曲がりくねって高さ二丈にも達しない。獲はこれで夷を欺いたのである。
- (魏氏春秋より)はじめ益州従事の常房が部を巡って朱褒に異志ありと聞き、その主簿を捕らえて取り調べて殺した。褒は怒って房を攻め殺し、謀反の罪を着せた。諸葛亮は房の子らを誅し、その四人の弟を越巂に移したが、褒は改めなかった。
- (裴松之の説)房が褒に誣いられたのなら、執政が澄まして察するべきところだ。どうして罪なき者を殺して姦悪を悦ばせようか。これは妄りな記述であろう。
- (王士騏の評)裴の言はまことに当たっている。『左編』がこれを採って伝に入れたのは誤りだ。
建興三年(225年) 出征と諸将の進言
- 亮が衆を率いて南征し、詔して金鈇鉞一具・曲蓋一・前後の羽葆鼓吹各一部・虎賁六十人を賜った。
- (襄陽記より)亮が南中を征したとき、馬謖が数十里見送った。亮が「長年ともに謀ってきたが、いま改めて良い策を授けてくれ」と言うと、謖は答えた。「南中は険阻を恃んで服さぬこと久しい。今日破っても明日また反くだけです。今、公は国を傾けて北伐し強賊に当たろうとしている。彼らは官の内が虚しいと知れば叛くのも早い。残らず殄し尽くして後患を除くのは仁者の情ではなく、しかも倉卒にはできません。用兵の道は心を攻めるのが上、城を攻めるのが下。心の戦が上、兵の戦が下です。どうか公はその心を服させてください」。亮はその策を容れた。
- (王連傳より)南方の諸郡が服さず、亮が自ら征こうとしたとき、長史の王連は「そこは不毛の地、疫癘の郷です。一国の望みを担う方が危険を冒して行くべきではありません」と諫めた。亮は諸将の才が自分に及ばぬことを慮って必ず行くつもりだったが、連の言があまりに懇切だったので、しばらく足を止めた。
建興三年(225年) 三道の進撃
- 亮は安上から水路で越巂に入り、別に馬忠を牂牁に、李恢を益州郡に向かわせ、犍為太守の広漢の王士を益州太守とした。高定は旄牛・定笮・卑水に多く屯を置いて守った。亮は定の軍が集まるのを待って一挙に討とうとし、卑水に軍した。定の部曲が雍闓を殺し、孟獲が闓に代わって主となった。馬忠は牂牁を破ったが、李恢は南中で苦戦した。
- (李恢傳より)章武元年(221年)に庲降都督の鄧方が卒したとき、先主が「誰が代われるか」と問うと、恢は「先零の役に趙充国は『老臣に如くはなし』と言いました。臣も身の程を顧みず、陛下のご判断を仰ぎます」と答えた。先主は笑って「私の本意も卿にあった」と言い、恢を庲降都督として平夷県に住まわせた。
- (同)丞相亮の南征では、亮がまず越巂へ向かい、恢は道を進んで建寧へ向かった。諸県が大いに糾合して恢の軍を昆明に囲んだ。恢の衆は少なく敵は倍、しかも亮の消息も得られなかった。そこで南人を欺いて「官軍は糧が尽き、退こうとしている。私は長らく郷里を離れていたが、今こそ帰れる。もう北へは戻れぬ。帰って諸君と計を共にしたい。だから誠意をもって告げるのだ」と言った。南人が信じて囲みが緩んだところを恢は出撃して大破し、敗走する敵を追って南は槃江に至り、東は牂牁に接して亮と声勢を連ねた。南土の平定は恢の功が最も多い。
建興三年(225年) 瀘水を渡り孟獲を服させる
- 夏五月、亮は瀘水を渡り、行く先々で勝った。孟獲が夷にも漢人にも慕われていると聞き、生け捕るよう募った。捕らえて営陣の間を見せ、「この軍はどうか」と問うと、獲は「以前は虚実を知らなかったから敗れた。今、営陣を見せていただいたが、この程度ならたやすく勝てる」と答えた。亮は笑って釈き、あらためて戦わせた。七たび釈いて七たび擒え、なお亮が獲を帰そうとすると、獲は去ろうとせず「公は天の威です。南人はもう反きません」と言った。
建興三年(225年) 平定後の統治
- 南中の諸郡はことごとく平らぎ、みなその渠帥をそのまま用いた。諫める者があると亮は言った。「外から人を留めれば兵を留めねばならぬ。兵を留めれば食べる物がない。これが一つ目の難しさだ。加えて夷は破られたばかりで父兄を失っている。外の人を留めて兵がなければ必ず禍患となる。これが二つ目。また夷は廃立や殺害の罪を重ねて自ら釁が重いと思っているから、外の人を留めても結局は信じ合えない。これが三つ目。今、私は兵を留めず糧も運ばずに、綱紀がおおよそ定まり夷と漢がおおよそ安んずるようにしたいのだ」。
- こうして滇池に至り、益州を改めて建寧郡とし、李恢を太守とした。建寧と越巂を分けて雲南郡を置き、呂凱を雲南太守、王伉を永昌太守とした。
- (呂凱傳より)雍闓が呉に降ると、呉は遥かに闓を永昌太守に任じた。永昌は益州郡の西にあって道は隔絶していたが、凱は府丞の王伉と吏民を励まし、境を閉ざして闓を拒んだ。闓がたびたび永昌に檄を送ると、凱は「将軍の先君の雍侯は怨みを買いながらも封ぜられ、世々その美を歌われた。今、諸葛丞相は英才が抜きん出て、遺託を受けて季世の興隆を助け、功を録して瑕を忘れる。翻然と図を改められるなら、古人に追いつくのも難しくない。この鄙びた土地など宰するに足りましょうや」と答檄した。凱は威と恩が内に著れ郡中に信ぜられたので、節を全うできた。
- (同)亮は南に至って上表した。「永昌郡の吏呂凱、府丞王伉らは絶域に忠を執ること十有余年。雍闓・高定がその東北に迫っても、凱らは義を守って通じませんでした。永昌の風俗がこれほど敦く直いとは思いも寄りませんでした」。
- 南中の精兵である青羌一萬余人を蜀に移して五部とし、当たるところ敵なしで「飛軍」と号した。羸弱な者を分けて大姓の焦・雍・婁・爨・孟・量・毛・李に配して部曲とし、五部都尉を置いて「五子」と号した。だから南人は「四姓五子」と言う。
- 夷は剛狠で服さぬ者が多いので、大姓や富豪に金帛を出させて手強い夷を招き自家の部曲とさせ、多く得た者は代々官を襲がせた。こうして夷人は漢の財貨を貪って次第に服属し、夷漢の部曲が成った。その俊傑を採り、建寧の爨習、朱提の孟琰と孟獲を官属とし、金銀・丹漆・耕牛・戦馬を出させて軍賦の用に充てた。
南中の風俗と諸葛の図譜
- (常璩『南中志』より)夷人の大きな種族を昆、小さな種族を叟という。いずれも頭を曲げ木の耳環をつけ鉄で髪を結い、汶山・漢嘉の夷のように大きな侯王はいない。夷の中で狡猾で弁が立ち同族を言い負かせる者を耆老と呼んで議論を主宰させる。物に譬えるのを好み、それを夷経という。今の南人は学者ですら議論の半ばに夷経を引く。
- (同)夷と姻戚になった者を「遑耶」といい、諸姓のもとから出た者を「自有耶」という。世が乱れて法を犯すとそこに身を隠す。官に処罰された夷や、仇を報いて夷と親しくなった者を「百世遑耶」といい、恩は骨肉のようで、逃亡者の隠れ場となる。南人が軽々しく変を起こすのは、これを恃むからである。
- (同)その俗は巫鬼を信じ、呪いと盟いを好み、石を投げ草を結ぶ。官はつねに盟詛で約束させた。諸葛亮は夷のために図譜を作り、まず天地・日月・君長・城府を描き、次に神龍と、龍が夷や牛馬羊を生むさまを描き、後に部の主吏が馬に乗り幡蓋を立てて巡行し安撫するさま、また牛を牽き酒を負い金宝を携えて詣でるさまを描いて夷に賜った。夷はこれを甚だ重んじ、生口の代価を納めることを許した。また瑞錦と鉄券を与え、今もみな残っており、刺史や校尉が着任するたびに持参して示し、動くときも同様にする。
- (同)永昌郡は古の哀牢国で、哀牢は山の名である。その先祖に沙壼という一人の婦人があり、哀牢山の麓に住んで魚を捕って暮らしていた。あるとき水中で沈んだ木に触れて感応して身ごもり、十月を経て男子十人を産んだ。後にその沈木が龍と化して現れ、沙壼に「君は私のために子を生んだ。今どこにいる」と言った。九人の子は驚いて走り去ったが、末子だけが去れずに龍に陪して坐り、龍は坐って舐めた。沙壼は龍と言葉を交わし、陪坐したことから末子を元隆と名づけた。漢語の「陪坐」にあたる。
- (同)沙壼は元隆を連れて龍山の下に住んだ。元隆は長じて才武があり、後に九人の兄が「元隆は龍と語れて聡く智がある。天の貴ぶところだ」と言って共に推して王とした。当時、哀牢山の下にもう一組の夫婦がいて十人の娘を産んだので、元隆兄弟がこれを娶り、こうして人民が生じた。みな龍にならって衣の後ろに十本の尾を着け、腕と脛に刺青した。元隆の死後は代々相継ぎ、小王を分置して谷間に散らばって邑を成した。絶域の荒外で山川は険しく、人が生じて以来、中国と通じたことがない。南中の昆明はこれを祖とするので、諸葛はその国のために譜を作ったのである。
- (滇載記より)滇の酋長には六つあり、それぞれ「詔」と号した。夷の言葉で詔は王をいう。蒙舎詔・浪施詔・鄧賧詔・施浪詔・摩㱔詔・蒙雋詔である。兵力が拮抗して互いに君長となれなかった。漢の代に仁果という者があり、九龍八族の四世の孫で、強大になって昆彌川に居した。十七世を伝えて龍祐那に至り、ちょうど蜀漢の建興三年、諸葛武侯の南征に当たった。侯は雍闓を白崖川に討って闓を斬り、龍祐那を酋長に封じ、永昌・益州の地を割いて白崖に雲南郡を置いた。諸夷は侯の徳を慕って次第に山林を去り平地に移り住み、城邑を建てて農桑に努めた。諸部に姓氏ができたのはこれに始まる。
南征にまつわる伝承と遺跡
- (事物紀原より)諸葛が孟獲を征したとき、人が「蛮の地には邪術が多く、神に祈って陰兵を借りねばなりません。しかし蛮の俗では必ず人を殺してその首を神に祭ってこそ神は享け、兵を出してくれます」と言った。武侯は従わず、羊と豚の肉を混ぜて麵で包み、人の頭に象って神を祀ったところ、これも享けて兵を出した。後人はこれによって饅頭を作った。
- (九州記より)卭州沈黎県は孔明が羌を征した道である。十里ごとに石の楼を作り、鼓の音が互いに応ずるようにした。今の夷人はこれに倣い、住まいをみな石で楼に作る。
- (一統志より)安遠寨は嘉定州江安県の南七十里。孔明が蛮を征してここに屯駐したと伝える。宋の元豐年間に寨とした。
- (一統志より)武侯廟は嘉定州宝山の瀘峰にある。毎年、蛮人が馬を貢ぐときは必ず連れ立って廟に拝する。
- (一統志より)掇旗山は納溪県の東四里。武侯が旗を立てて蛮人に誓ったのでこの名がある。
- (一統志より)諸葛洞は龍州宣慰司の治所の南、石崖が屹立し、傍らに数歩の石洞がある。武侯が九溪の蛮を征したときここを通り洞中に宿り、寝床一つと粟一握を置いて馬に飼ったのが、後に石と化して粟が今も残ると伝える。
- (楚雄府より)諸葛営は定遠県の西十里。亮が南中を討って髣州を過ぎ、目直睒の北の山の下に営を築いた。夷は「望子洞」と呼び、基址が今も残る。
- (姚安府より)東山は府城の東十里、一名を飽煙蘿山という。その西に武侯塔があり、諸葛が南を征して兵を駐めた所と伝え、後人が塔を建てた。
- (金齒より)諸葛営は司城の南十里。その東、東嶽堰の内に土の墩が一つあり、周囲二十余丈・高さ六尺。水の高下に随って、大水でも沈まない。俗に武侯の旗台という。
- (金齒より)武侯廟は司城の南十里。諸葛が孟獲を擒えてここに屯営したので、民はその徳を懐って祠を立てて祀った。今も土地の人は自ら諸葛の遺民と称し、諸葛村と名づけている。
- (雅州より)大相公嶺は榮經県の西百里。諸葛が西南夷を征してここを通ったと伝え、上に諸葛廟がある。
- (雅州より)孟山は榮經県の東二十里。諸葛が孟獲を擒えた所。
- (雅州より)七縦橋は孟山の下。諸葛が孟獲を擒えたことにちなむ名と伝える。
- (雅州より)古城は榮經県の西五里。諸葛が南を征して兵を屯した所で、唐の李德裕が増築した。
- (黎州より)武侯廟は司城の北五里。宋の紹興年間に郡守の邵溥が旧廟を改めて新たにし、「天威廟」と榜した。
- (黎州より)武侯城は旧黎州城の外三里。諸葛が築いたもので、壕塹と旧塁が残る。
- (黎州より)また武侯の戦場が安清新寨にある。
- (黎平府より)孟獲城は司城の東二里、瀘州はすなわち孟獲を擒えた地。諸葛寨は長官司の西にある。
- (黎州より)諸葛武侯廟は府城の東南隅にある。
- (叙州府より)武侯塔は長寧県の治所の東。諸葛が蛮戎に誓うために建てたもの。
- (桂海虞衡志より)蛮の酋長は自ら「太保」と称し、おおむね山獠に似ているが首領がいる点が違う。椎髻に白紙を結ぶのは、今も諸葛武侯のために喪に服しているのだという。
- (桂海虞衡志より)漢蛮という者は衣服が中国とほぼ同じで華語を解し、自ら諸葛武侯の戍兵の子孫と称する。
- (威清衞より)銅鼓山は衞城の西四十五里。蜀漢の諸葛亮が南を征してここで銅鼓を得たと伝える。銅鼓は諸葛が蛮を征したときの鉦だともいう。
- (安南より)都の蛮は銅鼓を「諸葛鼓」と呼び、宝器として伝える。鼓は剥落があってなお音が響くものを上等とし、上等の鼓は牛千頭と交換でき、次は七、八百頭と、順に等級がある。二、三面も蔵する者は一方に雄視できる。父老は「諸葛が蛮を鎮めるために作った。鼓が去れば蛮の運も終わるということだ」と言う。理としてありそうなことである。
- 侯が南夷を平定したばかりのころ、夜に軍中で帰郷を思う歌が多いのを聞き、衆を召して一人ずつ甎を与え、「そなたらは長く行役に苦しみ、早く帰りたいのだろう。これを枕に寝よ。明朝には家に着く」と言った。従った者は果たしてそうなり、命に従わなかった者はついに帰れなかった。今、雲南の管内に住民がみな四川の人という城が一つあり、その後裔だという。
- 雲南・貴州の土官の堂の後ろの中門は甚だ低く、出入りに必ず頭を下げねばならない。武侯の遺した制で、朝廷を敬わせるためだという。少しでも戸を高くする者があると、たちまち内輪から禍が起こる。
- 苗民は家ごとに武侯の像を祀る。穀を一粒ずつ剥いて米にして炊くので、日々それに追われて暇がない。これも武侯に始まり、年中働かせて閑を得させず、叛意を抱かせないためだという。今も苦しくとも、その法に背こうとしない。
- (隋書より)史萬歳が南寧の夷を征したとき、諸葛亮の紀功碑を見た。その背に「萬歳の後、我に勝る者がここを過ぎる」と銘してあった。萬歳は進んで三十余部を破り、そこで石に刻んで徳を頌えた。
- (一統志より)唐の広德の初め、鳳伽異が拓東城を築いた。もと諸葛亮の碑があり、文に「城の碑が倒れれば、蛮は漢の奴となる」とあった。夷はその誓いを畏れ、つねに石で支えている。
- (臨安府より)諸葛山は通海県の東南三里。亮が南征して兵を駐めた所。
- (山川紀異より)孔明が雍闓を斬り孟獲を擒えて軍を還したとき、石を立てて「後に功が我が上にある者は、右に石を立てよ」と誓ったと伝える。宋の狄青が儂智高を破ってその右に碑を立てたが、まもなく雷に撃たれた。今も断碑がその側に横たわっている。
- 宋の淳化年間、李順の乱のとき、蜀の招安使雷有終が嘉州の士人辛怡顯を南詔へ使いさせた。姚州に至ると、その節度使の姚公美が書を送って迎え、「当地には瀘水があり、昔、諸葛武侯が『貢献と進討のほかはみだりにこの水を渡ってはならぬ。どうしても渡るなら祭を行え』と戒めた。今、本部の軍将に金龍二条・金銭三十文を持たせ、酒脯を設けさせるので、まず祭ってから渡られよ」と言った。南夷の心服は千年を経てなお初めのごとしと知られる。事は怡顯の作った『雲南錄』に見える。
- 蜀漢の時、火濟という者が丞相亮に従って孟獲を破り、功があって羅甸国王に封ぜられた。今の宣慰使安氏の遠祖である。
- 滇中に府を開いた者で、堪輿(風水)の家をもって自任する人がいた。初め昆明の一区を卜して幕府を移そうとし、草を刈ったところ小さな碑が出て「諸葛禁地」とあり、地はみな鉄で固められていた。
- また白沙駅は形勝が最もよいとされるが、蠢かな夷が龍脈を尋ねて掘り断ってしまっており、そこにも「諸葛禁地」の小碑があった。
- 太華山は滇省の会合するところで、みな大きな銅の釘で鎮めてある。釘を一本抜くたびに、夷に必ず変事が起こるという。