編者按
- 侯は隆中の対で「孫権は江東を拠って三世を経ており、援とすべきで図るべきではない」と言った。『武侯全書』が特に「連呉」を立てたのは見識が高い。
- ただし董恢が費禕に代わって答えた話、費禕と諸葛恪が嘲り合った話は疑いを残してよく、虞俊が張温の失敗を予見した話や、孝起(宗預)が正方(李嚴)を評した言は削った。周瑜・魯肅の順逆と、兄瑾・子喬との往復の書は、連呉の事跡を備えるために附け加えた。
建安十三年(208年) 赤壁の同盟
- 昭烈が当陽で敗れると、諸葛亮は「事は急です。命を奉じて孫将軍に救いを求めます」と言った。孫権は聴き入れ、周瑜・魯肅らと水軍三萬を亮に随わせて力を併せ操を拒んだ。
- (魯肅傳より)荊州牧劉表が卒したとき、肅は権に「荊州はわが国と境を接し、沃野萬里、帝王の資です。今、表が亡くなり二子は仲が悪く、軍中の諸将もそれぞれ立場が違う。劉備は天下の梟雄で操と隙があり、表に寄寓していたが表はその才を憎んで用いなかった。命を奉じて表を弔い、備に表の衆を撫めさせて共に曹操に当たるよう説きたい。備は喜んで従うでしょう。急がねば操に先を越されます」と進言した。権は肅を遣ったが、着く前に操はすでに漢津を渡っていた。肅は進んで備と出会い、権の意を伝え、天下の情勢を論じて懇ろな意を示した。備は大いに喜び、ただちに亮を肅と同行させた。肅は亮に「私は子瑜(諸葛瑾)の友だ」と言い、その場で交わりを結んだ。
- (裴松之の評)備と権が力を併せたのは、すべて肅のもともとの謀である。
- (王士騏の評)亮が権を説けたのは、ひとえに肅と結んだからだ。肅が内から、亮が外から動き、肅が端緒を開き亮が説を完成させた。後日の荊州の借用も肅が勧めたことで、肅が死んだとき孔明が哀を発したのには理由がある。
- (呉書より)曹操は権に書を送り、「近ごろ辞を奉じて罪を伐ち、旌麾を南に指したところ劉琮は手を束ねた。今、水軍八十萬を整え、将軍と呉で会猟しよう」と言った。権が臣下に示すと、みな震え上がって色を失った。長史の張昭らは「曹公は豺虎です。天子を挟んで四方を征し、動けば朝廷を名分にする。今これを拒めば筋が通らぬ上、将軍が操を拒ぎ得る大きな頼みは長江でしたが、今、操は荊州を得てその地を併せ、劉表が整えた水軍の蒙衝・闘艦は千数、操はこれをすべて江に浮かべ、歩兵も加えて水陸ともに下ってくる。長江の険はすでに我と共有され、勢力の多寡は論ずるまでもない。迎え入れるほかありますまい」と言った。
- (同)魯肅ひとりが黙っていた。権が厠に立つと肅は軒下まで追った。権は意を察して肅の手を取り「卿は何を言いたい」と問うた。肅は「先ほどの衆議は将軍を誤らせるだけで、大事を図るに足りません。今、私は操を迎えてもよい。しかし将軍はいけません。なぜか。私が操を迎えれば、操は私を郷里に返して名位を品定めするでしょうが、それでも下曹従事は失わず、犢車に乗り吏卒を従え、士林と交わって累進し、州郡の任は失いません。将軍が操を迎えたら、どこに落ち着かれるのです。早く大計を定め、衆人の議を用いられますな」と言った。権は嘆息して「諸人の議は私の望みを大きく外した。今、卿が大計を開いてくれたのは、まさに私と同じだ」と言った。そのとき周瑜は使いで鄱陽にいたので、肅は権に瑜を召し還すよう勧めた。
- (同)瑜は至って権に説いた。操は漢の丞相と名乗るが実は漢賊です。将軍は神武の雄才に父兄の遺業を兼ね、江東を割拠して地は数千里、兵は精鋭で用に足り、天下を横行して漢家のために残穢を除くべきです。まして操は自ら死にに来たのに、なぜ迎えるのですか。今、北の地はまだ平らがず、馬超・韓遂が関西にあって操の後患です。操は鞍馬を捨てて舟楫に頼り呉越と衡を争う。今は厳寒で馬に藁がなく、中国の士衆を駆り立てて遠く江湖の間を渡らせれば水土に慣れず必ず疾疫が生じます。これらはみな用兵の患いなのに、操はすべて冒して行っている。操を擒えるのは今日にあります。精兵数萬をいただければ、必ず破ってご覧に入れます。
- (同)権は「老賊が漢を廃して自ら立とうとして久しい。ただ二袁・呂布・劉表と私を忌んでいただけだ。今、数雄はすでに滅び私だけが残った。私と老賊は両立せぬ。君が撃つべしと言うのは私の考えと合う。これは天が君を私に授けたのだ」と言い、刀を抜いて前の奏案を斬り、「諸将吏であえて操を迎えよと言う者があれば、この案と同じにする」と言って会を閉じた。
- (同)その夜、瑜はふたたび権に会って「諸人はただ操の書の『水歩八十萬』を見て怖じ、虚実を量っていません。実際に計れば、操が率いる中国の人は十五、六萬に過ぎず、しかも久しく疲れている。劉表から得た衆もせいぜい七、八萬で、なお疑いを抱いている。疲れ病んだ卒で疑う衆を御するのですから、数は多くとも恐れるに足りません。私に精兵五萬あれば十分に制せます。ご心配なく」と言った。権はその背を撫でて「公瑾、卿がここまで言うのは私の心にかなう。子布(張昭)や元表らはそれぞれ妻子を顧みるが、ひとり卿と子敬(魯肅)だけが私と同じだ。天が卿ら二人を私に助けとして与えたのだ。五萬の兵は急には揃わぬが、すでに三萬を選び、船・糧・戦具はみな整えた。卿は子敬・程公と先に発て。私は続いて人衆を発し、資糧を多く積んで後援となる。卿が事を成せるならそれでよし、もし思うようにいかなければ私のもとへ還れ。私が孟德と決着をつける」と言った。こうして周瑜・程普を左右の督として兵を率いさせ、備と力を併せて操を迎え撃たせ、魯肅を贊軍校尉として方略の立案を助けさせた。
- (同)劉備は樊口にあって、日ごとに邏吏を水際に遣って権の軍を待った。軍吏が瑜の船を見て駆け戻って備に告げ、備は人を遣って慰労した。瑜は「軍務があって持ち場を離れられません。ご足労いただけるなら望外です」と答えた。備は小舟一艘で瑜に会いに行き、「今、曹公を拒むのは実によい計だ。戦卒はどれほどか」と問うた。瑜が「三萬」と答えると、備は「少ないのが残念だ」と言った。瑜は「これで十分に足ります。豫州はただ瑜が破るのをご覧あれ」と言った。備が魯肅らを呼んで一緒に話そうとすると、瑜は「命を受けている以上、勝手に持ち場を委ねられません。子敬に会いたければ別に訪ねてください。それに孔明も一緒に来ているし、二、三日で着きます」と言った。
- (同)進んで赤壁で操と遇った。操軍にはすでに疾疫が出ており、一度戦って操軍は不利となり、江北に退いて次した。瑜らは南岸にあった。瑜の部将黄蓋が「今、敵は多く我は少ない。持久は難しい。操軍は船艦を連ねて首尾を接している。焼いて走らせられます」と言った。そこで蒙衝・闘艦十艘に乾いた荻と枯柴を積んで油を注ぎ、帷幕で包んで上に旌旗を立て、逃走用の走舸を尾に繋いだ。まず書を操に送って降を装った。折しも東南の風が急で、蓋は十艦を最前に置き、中流で帆を揚げ、残りの船も次々に進んだ。操の軍吏や士はみな営を出て立ち並んで見物し、「蓋が降ってくる」と指さした。北軍まで二里余のところで一斉に火を放つと、火は烈しく風は猛く、北の船を焼き尽くし、岸上の営にまで及んだ。焼け死に溺れ死ぬ人馬は甚だ多かった。劉備と周瑜は水陸ともに進んで南郡まで追い、操は軍を引いて還った。
- (同)はじめ操は周瑜が年若く才も美しいと聞き、遊説で動かせると考え、ひそかに九江の蔣幹を私用の旅と称して瑜のもとへ遣った。瑜は迎えて「子翼、遠く江湖を渡って苦労なことだ。曹氏の説客に来たのか」と言い、幹を案内して営中を見せ、倉庫や軍資・器仗を見せてから「大丈夫が世に処して己を知る主に遇い、外は君臣の義に託し、内は骨肉の恩を結び、言えば行われ計れば従われ、禍福を共にしている。たとい蘇秦・張儀が生き返っても、その意を移せようか」と言った。幹はただ笑って何も言えず、還って操に「瑜は雅量が高く、言葉で離間できる相手ではありません」と報じた。
建安十四〜十五年(209〜210年) 荊州の借用
- 建安十四年(209年)、昭烈は権を行車騎将軍・徐州牧に上表し、権は周瑜に命じて南岸の地を昭烈に分け与えた。昭烈は油江口に別に営を立てて公安と改名した。権はやや畏れて妹を嫁がせて好を固め、昭烈が京に至って権と会うと恩義はいよいよ睦まじくなった。
- 建安十五年(210年)、劉表の吏士で北軍に従っていた者の多くが操に叛いて昭烈に帰した。昭烈は瑜の与えた地が狭いので、自ら権のもとへ赴いて荊州数郡の都督を求めた。ひとり魯肅だけが貸すよう勧めた。
- (漢晉春秋より)呂範は権に備を留め置くよう勧めたが、魯肅は「いけません。将軍は神武が世を蓋うとはいえ、曹公の威力は実に重い。備に貸して操の敵を増やし、自ら味方を作るのが上策です」と言い、権は従った。
- (山陽公載記より)備は還って左右に「孫車騎は上体が長く下半身が短い。人の下につくのが難しい相だ。二度と会うまい」と言い、昼夜兼行で去った。
- (魯肅傳より)曹操は権が土地を備の生業に与えたと聞いて、書きかけの筆を地に落とした。
- (周瑜傳より)瑜は上疏して「劉備は梟雄の姿があり、関羽・張飛という熊虎の将を持つ。長く人の下に屈する者ではありません。備を呉に移し、宮室を盛んにし美女や玩好を多く与えて耳目を娯しませ、あの二人を引き離して別々の地に置き、瑜のような者に率いさせて攻戦させれば、大事は定まります。今、みだりに土地を割いて備の生業を助け、この三人を揃って辺境に置けば、蛟龍が雲雨を得るように、池中の物では終わりますまい」と言った。権は、曹公が北にある以上は広く英雄を集めるべきであり、また備をにわかに制するのは難しいと考えて容れなかった。
- (同)瑜は臨終の牋にも「劉備を寄寓させるのは虎を養うようなものです。天下の事の終わりは分かりません。今は朝士が食事も遅れるほど働く秋、至尊がご配慮なさる日です。魯肅は忠烈で事に臨んで苟もしません。瑜に代われます」と書いた。
- (江表傳より)昭烈は龎統に「私はあのとき危急で求めるものがあったから行かざるを得なかったが、あやうく周瑜の手にかかるところだった。天下の智謀の士の見るところはおおよそ同じだ。あのとき孔明が行くなと諫めたのも、これを慮ってのことだろう」と言った。
建安十七年(212年) 益州入りと呉
- 劉璋が昭烈を迎えて張魯を討たせようとした折、曹操が孫権を征し、権は昭烈に救援を求めた。
- (昭烈の劉璋への書より)「私と孫氏はもともと唇歯の関係で、しかも関羽の兵は弱い。今、救いに行かねば曹操が必ず荊州を取る。その憂いは張魯どころではない。魯は自守の賊で、慮るに足りぬ」。
建安二十年(215年) 荊州の分割
- 孫権は昭烈が益州を得たので使者を遣って荊州の返還を求めた。昭烈は「涼州を得たら荊州を渡す」と答えたので、権は怒って呂蒙を遣り長沙・零陵・桂陽の三郡を襲い奪った。昭烈は曹操がすでに漢中を定めたと聞き、益州を失うのを懼れて権と荊州を分け、江夏・長沙・桂陽を東(呉)に、南郡・零陵・武陵を西(漢)に属させた。
- (馬良傳より)良は左将軍掾となり、後に呉へ使いした。良は亮に「今、国命を帯びて両家の親睦を図ります。どうか私を孫将軍に紹介してください」と頼み、亮は「君が自分で文を作ってみよ」と言った。良はすぐ草して「寡君は掾の馬良を遣わして聘を通じ好を継ぎ、昆吾・豕韋の勲を紹がせます。この人は吉士で荊楚の逸材、とっさの華やかさは乏しいが、よく事を全うする美点があります。心を降して受け入れ、使命を慰めてくださるよう願います」と書いた。権は敬意をもって遇した。
章武元〜三年(221〜223年) 東征と和の回復
- 章武元年(221年)、昭烈が東征すると孫権は和を求めた。
- (諸葛瑾傳より)瑾は昭烈に牋を送った。「にわかに旗鼓が白帝に至ったと聞きました。議臣たちはおそらく、呉王がこの州を侵し取り関羽を危害したので怨みは深く禍は大きい、和に応ずべきでないと言うでしょう。それは小に心を用いて大に意を留めぬものです。試みに陛下のために軽重を論じます。威を抑え忿を捨てて、しばし瑾の言を省みてくだされば、計はただちに決し、群臣に諮るまでもありますまい。陛下にとって関羽の親しさは先帝(漢の帝室)と比べてどうか。荊州の大小は海内と比べてどうか。ともに仇とすべきなら、どちらが先でどちらが後か。この数点を審らかにすれば、掌を返すように明らかです」。
- (同)当時、瑾がひそかに親しい者を遣って備と通じていると言う者があったが、権は「私と子瑜には死生も変えぬ交わりがある。子瑜が私に背かぬのは、私が子瑜に背かぬのと同じだ」と言った。
- (江表傳より)瑾が南郡にいたとき、ひそかに瑾を讒する者があり、陸遜が上表してそんな事実はないと保証した。権は「子瑜と私は長年事を共にし、深く互いを知り尽くしている。玄德が昔、孔明を呉に遣ったとき、私は子瑜に『卿と孔明は同腹の兄弟で、弟が兄に従うのは義として順当だ。なぜ孔明を留めぬのか』と言った。子瑜は『弟の亮はすでに人に身を委ね、質を委ねて分を定めました。義として二心はありません。弟が留まらぬのは、瑾が呉を去らぬのと同じです』と答えた。その言は神明に貫くに足りる。今さらこんなことがあろうか」と返答した。
- 章武二年(222年)、昭烈は猇亭に敗れて白帝に還った。孫権は甚だ懼れて使いを遣って和を求め、太中大夫の鄭泉が来聘して初めて往来が復した。昭烈はこれを許し、たびたび宋瑋・費禕らを遣って応答した。
- (江表傳より)権は「近ごろ玄德の書を得たが、深く自らを咎めていた。以前こちらが西を『蜀』と呼んだのは漢帝がなお存命だったからだ。今、漢はすでに廃されたのだから、『漢中王』と呼んでよい」と言った。
- 章武三年(223年)、昭烈が永安に崩じ、孫権は立信都尉の馮熙を弔喪に遣った。十一月、中郎将の鄧芝を報聘に遣った。
- (鄧芝傳より)これより先、呉王孫権が和を請い、先主はたびたび宋瑋・費禕らを遣って応答していた。丞相諸葛亮は、権が先主の死を聞いて別の計を立てるのではないかと深く憂え、どうしたものか決めかねていた。鄧芝が亮に会って「今、主上は幼弱で即位したばかりです。大使を遣って呉との好を重ねて申すべきです」と言うと、亮は「私も長らく考えていたが、人を得なかった。今日ようやく得た」と答えた。芝が「誰ですか」と問うと、亮は「ほかならぬ使君だ」と言った。
- (同)芝は権のもとへ修好に遣わされたが、権は果たして疑ってすぐには会わなかった。芝は自ら上表して面会を請い、「臣が来たのは呉のためでもあり、蜀のためだけではありません」と言った。権はそこで会い、「私は蜀と和親したいが、蜀主は幼弱、国は小さく勢いは迫られ、魏に乗ぜられて自らを保てぬのではないかと恐れ、猶予している」と語った。芝は答えた。「呉と蜀の二国は四州の地を持ち、大王は世に命ぜられた英傑、諸葛亮もまた一時の傑です。蜀には重険の固めがあり、呉には三江の阻みがある。この二つの長を合わせて唇歯となれば、進んでは天下を併呑でき、退いても鼎足に立てます。これは理の当然です。大王が今、魏に質を委ねれば、魏は上は大王の入朝を望み、下は太子を内侍に求めるでしょう。命に従わねば、辞を奉じて叛を伐つと称し、蜀も必ず流れに順って機を見て進みます。そうなれば江南の地はもはや大王のものではありません」。権は黙然として長く考え、「君の言う通りだ」と言い、魏と絶って蜀と連和した。
- (王士騏の評)権が弔喪の使いを出した以上、蜀の報使は当然のことで、鄧芝の言を待つまでもない。芝が呉に至って権が果たして疑ってすぐ会わなかったというのも、どういう意味か。蜀志が鄧芝に美を帰したのでなければ、呉書の妄りな記録である。
建興元〜四年(223〜226年) 使者の往来
- 建興元年(223年)、呉は輔義中郎将の張温を遣って来聘し、こちらもふたたび鄧芝を遣った。
- (秦宓傳より)呉の張温が来聘したとき百官はみな餞に出たが、宓だけが来ない。亮がたびたび使いを遣って促した。温が「あれは何者ですか」と問うと、亮は「益州の学士です」と答えた。宓が着くと温は「君は学があるか」と問うた。宓は「蜀中では五尺の童子もみな学があります。私ごときが何ほどのことを」と答えた。温が「天に頭はあるか」と問うと、「頭は西方にある。詩に『乃ち眷みて西を顧みる』とあるから、頭は西方だ」。「天に耳はあるか」には「天は高きに処って卑きを聴く。詩に『鶴、九臯に鳴き声は天に聞こゆ』とある。耳がなければ何で聴く」。「天に足はあるか」には「詩に『天步艱難』とある。足がなければ何で步く」。「日は東に生ずるか」には「東に生じても西に沒する」。「天に姓はあるか」には「姓は劉」。「なぜ分かる」には「天子の姓が劉だから分かる」。宓の答は響きのように速く、温は大いに敬服した。
- (葛洪『神仙傳』より)仙人の介象、字は元則、会稽の人。さまざまな方術を持ち、瓜や菜、百果をたちまち生じさせて食べられるようにした。呉主と鱠にする魚の優劣を論じたとき、象は「鯔魚が上です」と言った。呉主が「海中の魚をどうやって手に入れる」と言うと、象は「取れます」と答え、庭に方形の穴を掘らせて水を満たし、糸を垂れるとまもなく鯔魚が釣れた。呉主は驚喜して厨で切らせた。呉主が「蜀の生姜で作る虀がよいと聞くが、今はそれがないのが残念だ」と言うと、象は「使いを出して代金を持たせてください」と言った。呉主が左右の一人を指し銭を持たせると、象は符を書いて青竹の杖に入れ、その者に目を閉じて杖に乗るよう命じた。まもなく成都に着いた。折しも呉の使者張温が先に蜀にいて、蜀中で顔見知りだったので大いに驚き、そのまま家に手紙を託した。その者は手紙を持ち生姜を背負って杖に乗り目を閉じると、もう呉に戻っており、厨では鱠を切り終えたところだった。
- (呉書・呉範傳より)範は字を文則といい上虞の人。暦数を修めて風気を知り、郡中に名があった。後に権が魏と好を通じたとき、範は「風気から言えば、彼は表向き来ているが実は謀がある。備えるべきです」と言った。劉備が西陵に兵を盛んにしたときは「後には和親するでしょう」と言い、いずれもその通りになった。その占いの明察はこの通りであった。
- 権が亮に送った書に「丁厷は言葉が浮わつき、陰化は意を尽くさぬ。二国を和合させられるのは鄧芝だけだ」とある。
- (裴松之の説)『漢書』禮樂志に「長離前に掞りて光耀明らかなり」、左思の蜀都賦に「藻を摛べ天庭に掞ぶ」とある。孫権は丁厷の言が浮華に過ぎると言ったのだろう。「掞」は夷念の切で、「艶」に作る本もある。
- (編者按)陰化は蔣琬傳に見える。丁厷は詳らかでなく、何年に呉へ使いしたかも記されていない。
- (呉錄より)権は芝に「山民が乱を起こし、江辺の守兵を多く引き抜いたので、曹丕が隙に乗じて仕掛けてくるのを憂えている。それでかえって和を求めているのだ。議者は『内に手が回らぬ事情があって我に和を求めるのだから、こちらに利がある。通じて自らの備えを整えるべきだ』と言う。ただ西朝が私の赤心を分かってくれず、疑いを招くのが心配だ。私の土地は外に接し隙は萬端、みな防ぎ守らねばならぬ。丕は釁を窺って動く。都合よい機会が見えぬだけで、この点を忘れて他を図ることがあろうか」と語った。
- 建興四年(226年)、亮が南から帰ったばかりのころ、費禕を昭信校尉として呉に遣った。
- (費禕傳より)孫権は性来滑稽で嘲弄に際限なく、諸葛恪・羊衜の才弁も鋒鋭だったが、禕は言葉が理にかない義が篤く、ついに屈しなかった。権は「君は天下の淑德だ。必ず西朝の股肱となろう。たびたびは来られまいな」と言った。帰って侍中に遷り、亮が北の漢中に住したとき参軍に請われ、使いとして旨にかなうので頻繁に呉へ赴いた。
- (費禕別傳より)孫権は毎度よい酒を別に酌んで禕に飲ませ、酔ったのを見計らって国事を問い、当世の務めを論じて難詰を重ねた。禕はそのつど酔いを理由に辞して退き、問われた事を書き出して一つ一つ答え、遺漏がなかった。
- (同)権は手にいつも持っていた宝刀を禕に贈った。禕は「臣は不才、どうしてご明命に堪えましょう。しかし刀は不庭を討ち暴乱を禁ずるもの。ただ大王が功業を建てるに努め、共に漢室を助けられんことを。臣は暗弱ですが、決して東(呉)への顧みを裏切りません」と答えた。
- (襄陽記より)董恢は字を休緒、襄陽の人。蜀に入り、宣信中郎として費禕の副使で呉に赴いた。孫権が大いに酔って禕に「楊儀と魏延は牧童あがりの小人だ。時務に鳴き吠える程度の益はあっても、すでに任じた以上は軽んじられまい。もし一朝、諸葛亮がいなくなれば必ず禍乱となる。諸君はぼんやりして、そこを防ぐ配慮もない。それが子孫のために謀るということか」と言った。禕は愕然として四方を見回し即答できなかった。恢は禕に目配せして「早く申されよ」と促し、「儀と延の不和は私的な忿りから起きたもので、黥布・韓信のような御しがたい心はありません。今まさに強賊を掃い中華を統一しようとしている。功は才によって成り、業は才によって広がる。これを捨てて任ぜず後患を防ぐのは、風波に備えて先に舟楫を廃するようなもので、長い計ではありません」と述べた。権は大笑して楽しんだ。諸葛亮はこれを聞いて言を知る者と評し、帰って三日も経たぬうちに丞相府の属に辟し、巴郡太守に遷した。
- (裴松之の説)『漢晉春秋』にもこの語を載せるが、董恢が教えたとは言わず辞も少し違う。二書はともに習氏(習鑿齒)から出ているのにこう食い違う。本伝には恢は年少で官も低いとあるが、すでに丞相府の属となり出て巴郡を治めたのなら官は低くない。これによって習氏の言は正確でないと疑う。
- (諸葛恪別傳より)権が蜀の使い費禕を饗応したとき、あらかじめ群臣に「使者が来たら食べ続けて立つな」と命じておいた。禕が至ると権は食事の手を止めたが、臣下は立たなかった。禕は「鳳凰が飛来すれば麒麟は食を吐くもの。驢馬や騾馬は無知だから、そのまま食べている」と嘲った。恪は「梧桐を植えて鳳凰を待つのだ。どこの燕雀が『飛来した』と自称するのか。弾き射て故郷へ帰してやらぬのか」と応じた。禕は餅を食べる手を止めて筆を求め「麦賦」を作り、恪も筆を請うて「磨賦」を作った。ともに善しと称された。
- (江表傳より)禕と恪が嘲り合って呉と蜀に及んだとき、恪は「水があれば濁、水がなければ蜀、横目に狗の身、虫がその腹に入る。口がなければ天、口があれば呉、滄海に臨む天子の都だ」と言った。
- (諸葛恪傳より)蜀の使いが至って群臣が並び会したとき、権は使者に「この諸葛恪はたいそう乗馬を好む。帰って丞相に良馬を送るよう伝えてくれ」と言った。恪はそこで下って拝謝した。権が「馬はまだ来ておらぬのに、なぜ謝る」と問うと、恪は「蜀は陛下の外の厩です。今、恩詔があった以上、馬は必ず来ます。どうして謝さずにおられましょう」と答えた。
- (編者按)習氏の誤りを裴注が駁したのは正しい。まして「愕然として四方を見回した」「目配せして早く言えと促した」などというのは、使者が自ら応対する作法ではない。食べ続けて嘲り合い、賦を作って競うのも、客と主の雅な振る舞いではない。
建興七年(229年) 呉との盟約
- 建興七年(229年)春、孫権が帝を称し、使いを遣って盟を約し天下を分かつことを申し入れた。
- 議者はみな「交わっても益はなく、名分にも合わぬ」としたが、亮は言った。「権に僭逆の心があるのは久しい。国家がその釁情を大目に見てきたのは、犄角の援を求めるためだ。今、はっきり絶交すれば仇みは深くなり、こちらは兵を東へ移して守り、まず呉を併せてから中原を議することになる。あちらには賢才がなお多く将相も睦まじいから、一朝には定まらぬ。兵を頓めて相持し、坐して老いを待てば北賊に利する。上策ではない。昔、漢の文帝は匈奴に辞を低くし、先帝は呉との盟を優遇された。みな権を応じて変に通じ、遠い益を弘く思われたので、匹夫の分別ではない。呉が動かずに我と睦めば、我が北伐に東を顧みる憂いがなくなる。権の僭称の罪は、今は明らかにすべきではない」。
- 衞尉の陳震を遣って権の正号を慶した。権は震と壇に升って歃血して盟い、天下を分けて徐・豫・幽・青を呉に、并・涼・冀・兗を漢に属させ、司州の地は函谷関を境とした。
- (その盟の文より)天が喪乱を降して皇綱は序を失い、逆臣が釁に乗じた。董卓に始まり曹操に終わり、操の子丕に及んで桀逆の遺醜が天位を盗み取り、叡(明帝)という小者が丕の凶跡を襲った。昔、共工が象を乱して高辛が師を行り、三苗が度を干して虞舜が征した。今日、叡を滅ぼしその徒党を擒えるのは、漢と呉でなくて誰がいよう。まず土地を分け裂いて奪い、士民の心にそれぞれ帰すべき所を知らせるべきである。『春秋』に晉侯が衞を伐つのにまずその田を分けたとあるのは、この義である。諸葛丞相は徳威が遠くに著れ、戎を典どって外にあり、信は陰陽を感じ誠は天地を動かす。あらためて盟を結び、東西の士民にことごとく知らせるものとする。
兄瑾・陸遜らとの書簡
- (亮の兄瑾への書より)喬はもともと成都に還らせるはずだったが、今は諸将の子弟がみな輸送に当たっている。栄辱を同じくすべきだと考え、喬に五、六百の兵を督させて子弟らと共に谷中を輸送させている。東朝(呉)の厚遇を受けて子弟を慕っていたし、子喬は良い器だっただけに痛ましく、亮に贈った器物を見ると涙が流れる。
- (編者按)幼いころこの書簡を読んだときは、子喬を惜しみ家庭の情に感じ入ったものと思っていた。近ごろ呉書孫翊傳を調べると、「翊の子松は射声校尉・都郷侯となり、黄龍三年に卒した。蜀の丞相諸葛亮が兄瑾に送った書に云々」とあり、松をこれほど悼んだのは、亮の養子喬が松を語っていたからだという。しかしこれには疑わしい点が多い。子喬の卒したのは建興元年癸卯で、松の卒した黄龍三年辛亥はそれから九年後である。喬が昔語ったことが今日の悲嘆になるものだろうか。書意をたどっても松には全く触れておらず、わずかな伝聞のために涙するというのは、情理のどこにも合わない。「松を悼む」とはいったいどこの話か分からない。陳志を不正確とするのも理がなく、精密な裴注も参駁して一語も触れていない。まったく解せないので、疑問として挙げ、識者の検討を俟つ。
- (同・瑾への書より)瞻は今すでに八歳、聡明で愛らしい。ただ早熟が過ぎて大器にならぬのではと気がかりだ。
- (同)陽の小谷を通る道は、山崖が切り立ち渓水が縦横で行軍には向かないが、斥候の往来する要路で人は通れる。今、前軍にこの道を切り開かせて陳倉へ向かわせれば、賊の勢いを引きつけて兵を東へ分けさせずに済む。
- (同)孝起(宗預)は忠純の性が老いてますます篤い。東西の歓びと和合を助け述べるさまには貴ぶべきものがある。
- (同)殷徃嗣は秀才の中の僑肸というべき人物だ。東呉の菰蘆の中にも、これほど奇偉な人がいるのか。
- (同)兄上は白帝の兵が精練でないことを気にされるが、そこに督している兵は先帝の帳下の白毦で、西方随一の兵である。数が少ないのが難点なので、江州の兵を割いて増やすつもりだ。
- (同)先に趙子龍が退軍して焼いた赤崖以北の閣道は谷沿いに百余里ある。その閣の梁は一端を山腹に差し込み、一端は水中に柱を立てている。今は水が大きく急で柱を安んじられない。これは極まったところで、無理はできない。
- (同)近ごろ大水が出て、赤崖以南の橋と閣道はことごとく壊れた。当時、趙子龍と鄧伯苗はそれぞれ赤崖の屯田と赤崖口を守っていたが、崖沿いに伯苗と連絡が取れただけだった。
- (王士騏の説)この二条は『水經』に見える。近ごろ「赤牘」を補遺した者は二語だけを載せている。
- (編者按)諸葛の兄弟は二国の使いとして交わったが、いずれも公の会見で相見え、退いて私に会うことはなかった。公に奉じて嫌疑を遠ざけることこの通りである。もし東西が離反していたらどうなっていたか。往復の書があるのは、みな連呉に始まると分かる。それゆえここに備え載せる。
- (亮の呉王への書より)お送りいただいた白毦は僅かなものでしたのに、重ねてご辞退のお言葉をいただき、いよいよ恥じ入るばかりです。
- (編者按)白毦・結毦は、これまで誤って「帽の飾り」と解されていた。友人の錢功甫が「羽毛の飾りである。耳偏であって目偏ではない」と言うのを聞いて、ようやく分かった。読書して字を識らぬ弊は千里の隔たりどころではない。そこで「結毦」の下を改めた。
- (亮の陸遜への書より)家兄は年老い、恪は性が疎いのに、今、糧穀を掌らせている。糧穀は国の最も要のもの。私は遠くにいますが内心落ち着きません。至尊に申し上げて転任させていただきたい。
- (陸遜傳より)諸葛亮が政を執って権と連和したとき、その時々に適した事柄は、権はそのつど遜に亮へ伝えさせた。
- (呉書・是儀傳より)蜀の丞相諸葛亮が卒すると、権は西州に心を寄せ、儀を蜀に遣って盟好を申し固めさせた。
- (蜀書・宗預傳より)預が命を受けて呉に使いしたとき、孫権は「東と西は一家のようなものなのに、西がさらに白帝の守りを増したと聞く。なぜか」と問うた。預は「臣が思うに、東が巴丘の戍を増し西が白帝の守りを増すのは、いずれも事勢として当然のこと。どちらも問うに足りません」と答えた。権は大笑してその率直さを嘉し、鄧芝・費禕に次いで敬われた。
亮の死後──盟の行方
- (呉主志より)赤烏七年(244年)、步隲・朱然らがそれぞれ上疏して「蜀から還った者はみな、蜀が盟に背いて魏と通じようとしており、舟船を多く造り城郭を修めていると言う。また蔣琬は漢中を守りながら、司馬懿が南へ向かったと聞いても兵を出して虚に乗じ犄角しようとせず、かえって漢中を離れて成都近くに還った。事は明白で疑う余地がない。備えるべきだ」と言った。権はそうではないと判断し、「私は蜀を薄く扱っていない。なぜそんなことになろう。また司馬懿は先に舒に入ったが十日ほどで退いた。蜀は萬里の彼方、どうして緩急を知って兵を出せよう。昔、魏が漢川に入ろうとしたとき、こちらも警戒を厳にしたが動かず、魏が還ったと聞いてやめた。蜀がこれを疑えようか。それに人が国を治めるのに舟船や城郭を整えぬはずがない。今こちらが軍を整えるのも、蜀を防ぐためではあるまい。人の言は当てにならぬ。私が諸君のために家を賭けて保証する」と言った。蜀は結局、権の見立て通り何の謀もなかった。
- (張嶷傳より)呉の太傅諸葛恪が魏軍を破ったばかりで大いに兵を興し攻取を図ったとき、諸葛瞻は丞相亮の子で恪の従弟にあたるので、嶷は瞻に書を送った。「東主が崩じたばかりで太傅は寄託の重きを受けたが、それも容易ではない。まして呉楚の剽悍さは昔から記されているところ。太傅が幼主のもとを離れて敵地に踏み込むのは良計ではあるまい。郎君(瞻)が太傅に忠言を進めなければ、誰が言い尽くせよう。軍を旋らせて農を広め、徳恵を行い、数年のうちに東西が並び挙がっても遅くはない」。
- (漢晉春秋より)恪は司馬李衡を蜀へ遣って姜維に共同挙兵を説かせた。「古人の言に『聖人も時を作れぬが、時が至れば失ってもならぬ』とある。今、敵の政は私門にあり内外は猜疑で隔たり、兵は外で挫け民は内で怨む。曹操以来、彼の亡兆が今ほど現れたことはない。大挙して伐ち、呉が東を攻め漢が西に入れば、西を救えば東が虚となり、東を重んずれば西が軽くなる。練れた実のある軍で虚と軽の敵に乗ずれば、破るのは必定」。維は従った。
- (襄陽記より)李衡は字を叔平、もと襄陽の卒の家の子。羊衜に人物鑑識の目があると聞いて訪ねると、衜は「多事の世だ。尚書の劇曹郎の才がある」と評した。当時、校事の呂壹が権柄を弄び、大臣は圧迫を畏れて誰も言い出せなかった。衜が「李衡でなければ彼を困らせられぬ」と言い、共に薦めて郎とした。権が引見すると衡は呂壹の姦悪を数千言口述し、権は恥じる色を見せた。数か月で壹は誅され、衡は大いに抜擢された。
- (同)後に諸葛恪の司馬となり、恪が誅されると丹陽太守を求めた。当時、孫休がその郡にいたので、衡はしばしば法で締めつけた。妻の習氏がそのつど諫めたが従わなかった。休が立つと衡は憂え懼れ、妻に「卿の言を用いなかったのでこの始末だ」と言い、魏へ奔ろうとした。妻は「いけません。あなたはもと庶民で、先帝の抜擢は過分でした。たびたび無礼を働いた上に、自ら猜疑して逃げ叛き活路を求めるなど、そんな体で北へ帰って、どの面目で中国の人にまみえるのです」と言った。衡が「ではどうする」と問うと、妻は「瑯琊王(孫休)はもとより善を好み名を慕われる方で、今まさに天下に自らを示そうとしておられます。私怨で君を殺すことは決してありません。自ら獄に囚われて前非を列挙し、進んで罪を受けたいと申し出なさい。そうすればかえって手厚く許されます。ただ生き延びるだけでは済みません」と答えた。衡が従うと果たして無事で、威遠将軍を加えられ棨戟を授かった。
- (同)衡は家の資産を殖やそうとするたび妻に止められたが、後にひそかに客十人を武陵の龍陽の汎洲に遣って家を建てさせ、柑橘を千株植えた。死に臨んで子に「汝の母が家業を営むのを嫌ったので、家はこの通り貧しい。しかし我が州里に千頭の木奴がある。汝の衣食を責めることはあるまい。年に絹一匹ずつ納めれば十分だ」と言い残した。衡の死後、子が母に告げると、母は「それは柑橘を植えたのだろう。家から十戸の客が来なくなって七、八年になる。きっと汝の父が家を作らせたのだ。汝の父はいつも『太史公は江陵の千樹の橘は封君に当たると言った』と口にしていた。私は『人は徳義のないことを患うべきで、富まぬことを患うべきではない。貴くしてよく貧を守れてこそよい。そんなものが何になる』と答えたものだ」と言った。呉の末には衡の柑橘が実って年に絹数千匹を得、家は豊かになった。晉の咸康年間にも、その屋敷跡の枯れた木がまだ残っていた。
- (編者按)建興十二年(234年)、孔明は武功に出師して渭浜に屯田し、呉と同時大挙を約した。もし呉の軍星が並び輝いていたら、魏は支えられなかったろう。元遜(諸葛恪)のいう「呉が東を攻め漢が西に入れば、西を救えば東が虚となり、東を重んずれば西が軽くなる」は良い策である。元遜が死ななければ伯約(姜維)は孤立せず、漢の事はどうなったか分からない。天が漢を祚けなかったのは永遠の恨みである。もし元遜が門風に背かなければ、その雅志と忠孝は千載の後もなお凜として生気があり、周公瑾・魯子敬を継ぐに足りたろう。