- 履歴: 昭烈皇帝、姓は劉、諱は備、字は玄德。涿郡の人で、漢の景帝の子である中山靖王の後裔。若くして父を失い、母と履を売り席を織って暮らした。黄巾討伐の功で安喜尉、のち平原相・徐州牧・豫州牧・左将軍・荊州牧・益州牧を歴任し、建安二十四年(219年)に漢中王、章武元年(221年)に帝位に即く。章武三年(223年)四月、永安宮に殂す。年六十三。惠陵に葬られた。以下、後主の代の要目を建興元年(223年)から景耀六年(263年)の滅亡まで続ける。
編者按
- 『武侯全書』は「鼎立」を首に置き「紹統」を次にしている。事実を記し名を正すという趣旨なら並べ挙げても構わないが、私の考えでは、武擔で即位して改元しても「漢」の号は改めておらず、陳震が呉と盟ったときも「漢」と称して「蜀」とは称していない。堂々たる大典に明文があるのに、陳壽は私意に暗んで「蜀志」と題した。漢と賊とが混ざれば名も実も混乱する。
- そもそも「鼎立」と言うなら誰が統を継いだことになるのか。「紹統」を立てればそれは鼎立と相容れない。そこで名を「紹漢」と定め、侯の本志に従うこととした。
若年と挙兵
- 家の東南に桑の大樹があり、高さ五丈余、遠望すると車の蓋のようにこんもりしていた。通る者はみな異様に思い、「貴人が出る」と言う者もあった。昭烈は幼いころ一族の子らとその木の下で遊び、「私は必ずこの羽葆蓋の車に乗る」と言った。
- 十五歳のとき母に遊学させられ、同族の劉德然と共に同郡の盧植に師事した。德然の父元起がいつも資金を出し、「我が一族にこの子がいる。ただ者ではない」と言った。
- 昭烈は読書をあまり好まず、犬馬と音楽を好んだ。身の丈七尺五寸、手を垂れると膝に届き、振り向けば自分の耳が見えた。口数が少なく人にへりくだり、喜怒を色に出さず、豪俠と交わることを好んだので、若者たちが争って附いた。中山の大商人張世平・蘇雙が見て異とし、多くの金財を与えたので、昭烈はこれで徒衆を集められた。
- (関羽傳より)羽は亡命して涿郡に奔り、昭烈が郷里で徒衆を集めると、羽と張飛がその守りとなった。昭烈が平原相になると羽・飛を別部司馬として部曲を分け統べさせた。昭烈は二人と寝るときは同じ床で兄弟のようだったが、人の多い座では終日侍立し、艱険を避けず昭烈に従って行動した。
- 黄巾賊討伐の功で安喜尉となった。督郵が公務で県に来たとき、昭烈が面会を求めても通されなかったので、直ちに乗り込んで督郵を縛り杖二百を加え、綬を解いてその首に繋ぎ、馬柳に結んで官を棄て亡命した。賊に遇っては力戦し、しばしば戦功があった。
- 後に平原相を領した。郡民の劉平はもとより昭烈を軽んじ、その下につくのを恥じて刺客を送ったが、刺客は忍びず、事情を告げて去った。人心を得ることはこの通りであった。
徐州を領する
- 曹操が徐州を征したとき、徐州牧の陶謙は昭烈を豫州刺史に上表し、小沛に屯させた。謙は病篤くなって別駕の糜竺に「劉備でなければこの州を安んじられぬ」と言った。謙が死ぬと竺は州の人を率いて昭烈を迎えたが、昭烈は受けようとしなかった。
- 下邳の陳登は「今、漢室は衰え海内は傾覆し、功を立て事を成すのは今日にある。わが州は富み戸口は百萬。使君に州事を治めていただきたい」と言った。昭烈が「袁公路(袁術)が近く壽春にいる。四世五公の家で海内の帰するところだ」と辞すと、登は「公路は驕り高ぶるだけで乱を治める主ではない。今、使君のために歩騎十萬を集めたい。上は主を匡して民を済い、下は地を割いて境を守れる」と答えた。北海相の孔融も「袁公路が国を憂え家を忘れる人物か。冢中の枯骨など気にするに足らぬ。今日の事は百姓が有能な者に与えるのだ。天が与えるのに取らねば、悔いても追いつかぬ」と言った。こうして昭烈は徐州を領した。
- (獻帝春秋より)陳登らは使いを袁紹に遣り、「州将が殂して民に主がなく、姦雄が隙に乗じて盟主のご憂慮を招くことを恐れます。そこで元平原相の劉備府君を宗主として奉り、百姓に依るべき所を知らせました」と告げた。紹は「劉玄德は大らかで信義があり、徐州が喜んで戴くのはまことに望みにかなう」と答えた。
- (陳登傳より)許汜が劉備と共に荊州牧劉表の座で人物を論じ、「陳元龍(陳登)は湖海の士で豪気が抜けぬ」と言った。備が「君が豪気と言うのは何かあってのことか」と問うと、汜は「昔、乱を避けて下邳を過ぎたとき元龍に会ったが、客をもてなす気がなく、口もきかず、自分は大床に寝て客の私を下の床に寝かせた」と答えた。備は「君は国士の名がある。今、天下は大乱し帝主は所を失っている。君が国を憂え家を忘れ世を救う志を持つことを期待していたのに、田を求め家を問うばかりで採るべき言もない。それこそ元龍の忌むところだ。どうして君と語るものか。私なら自分は百尺の楼の上に寝て君を地面に寝かせる。上下の床どころではない」と言った。表は大笑した。備は続けて「元龍の文武と胆志は古人に求めるほかない。近ごろ比べられる者はいない」と言った。
呂布・曹操との間
- 袁術が攻めてきたので、昭烈は盱眙・淮陰で拒んだ。曹公は昭烈を鎮東将軍に上表し、宜城亭侯に封じた。建安元年(196年)である。
- 昭烈が術と一月余り対峙する隙に呂布が下邳を襲い、守将の曹豹が内応して布を迎え、布は昭烈の妻子を捕らえた。昭烈は海西へ軍を移した。楊奉・韓暹が徐州・揚州の間を侵すと、昭烈は迎え撃ってことごとく斬った。
- 昭烈が呂布に和を求めると布は妻子を返した。昭烈は関羽に下邳を守らせ、自らは小沛に還って兵を集め一萬余を得た。布はこれを憎んで自ら出兵して昭烈を攻め、昭烈は敗走して曹操に帰した。
- 操は厚遇して豫州牧とし、沛に至って散卒を収め軍糧を給し、兵を増やして東の布を撃たせた。布が高順を遣って攻め、操が夏侯惇を送ったが救えず順に敗れ、昭烈の妻子は再び捕らえられて布に送られた。操は自ら東征して昭烈を助け、下邳に布を囲んで生け捕り、昭烈は妻子を取り戻した。
- (呂布傳より)布は縛られて苦しみ、操は緩めようとした。劉備が進み出て「明公は布が丁建陽(丁原)と董太師(董卓)に仕えたさまをご覧にならぬのか」と言った。操は頷き、布を縊り殺した。
- 操に従って許に還ると、昭烈は左将軍に上表されていよいよ厚遇され、出れば輿を同じくし座れば席を同じくした。あるとき操は「天下の英雄は、ただ使君と操だけだ。本初(袁紹)の輩は数えるに足らぬ」と言い、昭烈は食事中で匙と箸を取り落とした。
- (華陽國志より)ちょうどそのとき雷が鳴った。昭烈は操に「聖人が『迅雷風烈には必ず変ず』と言ったのは、もっともなことです。一つの雷の威がこれほどとは」と言い繕った。
董承の謀と曹操からの離脱
- 帝の舅である車騎将軍董承が、帝の衣帯の中の密詔を受けて曹操を誅すべしと称した。昭烈は承らと謀を同じくし、折しも袁術迎撃を命ぜられたのを機に下邳を拠り、徐州刺史の車冑を殺した。東海の郡県の多くは操に叛いて昭烈についた。
- 操が劉岱・王忠を遣って撃たせたとき、昭烈は「そんな者が百人来ても私をどうもできぬ。曹公が自ら来れば分からぬがな」と言った。
- 建安五年(200年)、操が東征して昭烈の妻子と関羽を捕らえて帰った。
- (魏書より)董承らの謀が漏れ、操が自ら東征しようとすると諸将はみな「公と天下を争うのは袁紹です。今まさに紹が来ようというのに、東へ向かうのは。紹に背後を突かれたらどうします」と言った。操は「劉備は人傑だ。今撃たねば必ず後の患いとなる。紹は事を見るのが遅いから必ず動かぬ」と答えた。
- 昭烈は青州へ走り、袁紹は将を遣って迎え、自らも鄴を二百里離れた所で昭烈と会った。このとき関羽も操のもとを去って昭烈に帰した。
- (関羽傳より)操は羽の人となりを壮としたが、長く留まる気がないと察し、張遼に「君が情に訴えて問うてみよ」と言った。遼が問うと羽は嘆じて「曹公の厚遇は十分に承知している。しかし私は劉将軍の厚恩を受け、共に死ぬと誓った。背くことはできぬ。私は結局留まらない。必ず功を立てて曹公に報いてから去る」と答えた。羽が顔良を斬ると、操は必ず去ると知って賞賜を重ねた。羽は賜った物をすべて封じ、書を残して辞去し、袁軍にいた先主のもとへ奔った。
荊州の劉表のもとで
- 昭烈はひそかに紹から離れようとして、南の荊州牧劉表と結ぶよう説いた。表は自ら郊外に迎えて上賓の礼で遇し、兵を増やして新野に屯させた。
- 荊州の豪傑で昭烈に帰する者が日に日に増え、表はその心を疑ってひそかに抑え、博望で夏侯惇・于禁らを拒がせた。昭烈は伏兵を置き、ある朝みずから陣屋を焼いて偽り退き、追ってきた惇らを伏兵で破った。
- (編者按)博望の焼屯は陳壽の志ではもともと建安十一年以前に載る事で、隆中の三顧は十二年の事である。今の俗説はこれを孔明に帰して「初めて茅廬を出ての第一功」などと言う。近ごろは謝少連も王冏伯も誤って三顧以後の事としている。昭烈自身が用兵に長けていたので、何もかも孔明の功にする必要はない。しかも原文は「自ら屯を焼いた」のであって、敵の屯を焼いたとは言っていない。
- (趙雲別傳より)雲は博望で夏侯惇と戦い、夏侯蘭を生け捕った。蘭は雲と同郷で幼なじみだったので、雲は先主に申し出て助命し、法律に明るいと薦めて軍正とした。しかし自らは近づけなかった。その慎重さはこの類である。
- 建安十二年(207年)、曹操が北の烏桓を征したとき、昭烈は表に許を襲うよう説いたが用いられなかった。操が柳城から還ると表は「君の言に従わなかったので、この大きな機会を失った」と言った。昭烈は「事の機会が来ることに終わりはありません。この後に応じられるなら、これは恨むに足りません」と答えた。
- (九州春秋より)備は荊州に数年住み、あるとき表の座から厠に立ち、腿の内側に肉がついたのを見て感慨のあまり涙を流した。席に戻って表が怪しんで問うと、備は「私はつねに身を鞍から離さず、腿の肉は落ちていた。今は乗らぬので腿の肉が戻った。月日は馳せるように過ぎて老いが来ようとしているのに、功業が立たない。それで悲しいのです」と答えた。
当陽の敗走と赤壁
- 曹操が南征したところ、折しも表が卒して子の琮が代わって立ち、使いを遣って降伏を請うた。諸葛亮は琮を攻めれば荊州を取れると説いたが、昭烈は「私は忍びない。劉荊州は死に臨んで孤児を私に託した。信を背いて自分を利しては、死んでどの面目で劉荊州に会えよう」と言った。そして馬を止めて琮を呼んだが、琮は懼れて出て来られなかった。琮の左右や荊州の人の多くが昭烈に帰した。昭烈は表の墓に別れを告げ、涙を流して去った。
- 当陽に至るころには衆十余萬、日に十余里しか進めなかった。別に関羽に船数百艘を率いさせて江陵で合流させることにした。速く行くよう勧める者がいたが、昭烈は「大事を済す者は人心を本とする。今、人が私に帰しているのに、どうして棄てて去れよう」と言った。
- (習鑿齒の評)先主は顛沛と険難の中にありながら信義はいよいよ明らかで、勢いに迫られ事が危うくても言葉は道を失わなかった。景升(劉表)の遺託を顧みる姿は三軍を感動させ、義に赴く士を思う心は共に敗れることさえ甘んじさせた。人の情を結ぶそのさまは、酒を注いで寒を撫で蓼を含んで病を問う類の話にとどまらない。ついに大業を済したのも当然である。
- 操は精騎を率いて急追し、一日一夜に三百余里を行って当陽の長坂で追いついた。昭烈は妻子を棄て、諸葛亮・張飛・趙雲ら数十騎と走った。
- (趙雲傳より)雲は幼子(後の後主)を抱き、甘夫人(後主の母)を保護して、いずれも難を免れさせた。先主が敗れたとき「雲はすでに北へ去った」と言う者がいたが、先主は手戟でその者を打って「子龍が私を棄てて走るものか」と言った。まもなく雲は至った。江南平定に従って偏将軍・桂陽太守となり趙範に代わった。範の寡婦の兄嫁樊氏は国色で、範はこれを雲に娶わせようとしたが、雲は「同姓であり、卿の兄は私の兄も同然」と固辞した。勧める者に雲は「範は追い詰められて降っただけで心は測れぬ。天下に女は少なくない」と言い、ついに娶らなかった。果たして範は逃走したが、雲には少しの累も及ばなかった。
- 昭烈は斜めに漢津へ向かい、ちょうど羽の船と会って沔水を渡ることができた。表の長子で江夏太守の琦と衆一萬余に遇い、共に夏口に至った。亮を遣って孫権と結ばせ、権は周瑜・程普らと水軍数萬を送って昭烈と力を併せ、赤壁で操と戦って大破し、その舟船を焼いた。操は引き揚げて帰った。
- 昭烈は琦を荊州刺史に上表し、また南の四郡を征してみな降した。琦が病死すると群下は昭烈を推して荊州牧とし、公安を治所とした。権はやや畏れて妹を嫁がせて好を固めた。
- (趙雲別傳より)先主が益州に入るとき雲は留営司馬を領した。当時、先主の孫夫人は権の妹という驕りから呉の吏兵を多く連れて法を無視していたので、先主は雲の厳正さを頼んで内向きの事を掌らせた。権は先主の西征を聞いて盛んに舟船を遣って妹を迎え、夫人はひそかに後主を呉へ連れ帰ろうとした。雲は張飛と兵を率いて江を遮り、ようやく後主を取り戻した。
益州の平定
- 建安十六年(211年)、益州牧の劉璋は曹操が張魯を討とうとしていると聞いて憂え懼れた。別駕の張松が「曹公の兵は強い。張魯の資を得て蜀を取られたら誰が防げましょう。劉豫州は使君の宗室であり曹操の深い仇。彼に魯を討たせれば魯は必ず破れ、益州は強くなり、曹公が来ても何もできません」と説き、璋はもっともとして法正を遣って昭烈を迎えた。正は益州を取るべき策を陳べた。
- (法正傳より)正は璋の意を伝えたうえで、ひそかに先主に「明将軍の英才をもって、劉牧の懦弱と、州の股肱である張松の内応に乗じ、そのうえで益州の富と天府の険阻に拠れば、業を成すのは掌を返すようなものです」と献策し、先主はもっともとした。
- 昭烈は亮・羽らを留めて荊州を守らせ、歩卒数萬を率いて益州に入った。璋が自ら出迎えたとき、松は法正と龎統らに、その会見の場で璋を襲うべしと進言させたが、昭烈は「これは大事だ。倉卒にはできぬ」と言った。
- (龎統傳より)統は「荊州は荒れ果てて志を得がたい。今、益州は富み強く戸口は百萬、兵馬も宝貨も外に求める要がない。今これを借りて大事を定めるべきです」と説いた。昭烈が「今、私と水火をなすのは曹操だ。操が急なら私は寛、操が暴なら私は仁、操が譎なら私は忠。つねに操と反対にしてこそ事は成る」と言うと、統は「権変の時は一つの道では定まりません。弱きを兼ね昧きを攻めるのは古の道です。逆に取って順に守り、事が定まった後に大国に封ずれば、信義に何の負い目がありましょう。今取らねば、結局は他人の利になるだけです」と答えた。
- 翌年、曹操が孫権を征し、権は昭烈に救援を求めた。張松が昭烈と法正に「今、大事が成ろうというのに、なぜこれを捨てて去るのか」と書き送ったが、松の兄粛は禍が及ぶのを懼れてその謀を密告した。璋は松を捕らえて斬り、諸将に昭烈と通じるなと令した。昭烈は怒って璋の白水督楊懐を召し、無礼を責めて斬り、兵を率いて璋に向かい、諸将を分け遣って属県を平定した。建安十九年(214年)、雒城が破れて進んで成都を囲んだ。
- (龎統傳より)統はさらに三計を説いた。上計は、ひそかに精兵を選び昼夜兼行で直接成都を襲うこと。中計は、関頭を守る璋の名将楊懐・高沛が、たびたび璋に将軍を荊州へ帰すよう諫めていると聞くので、荊州に急ありとして帰るふりをすれば、二人は将軍の英名に服し去るのを喜んで必ず軽騎で会いに来る。そこで捕らえて兵を取り、成都へ向かうこと。下計は、白帝へ退いて荊州と連携し、ゆるゆる図ること。ぐずぐずして去らなければ大困に陥り長くはもたぬ、と。先主は中計を採った。
- (張飛傳より)飛は亮らと流れを遡り郡県を分け定め、巴郡太守の嚴顔を生け捕った。飛が「なぜ降らぬ」と叱ると、顔は「卿らは無法にも我が州を侵し奪った。我が州には首を斬られる将軍がいるだけで、降る将軍はおらぬ」と答えた。飛は壮として釈き、賓客とした。飛は行く先々で戦い勝ち、成都で先主と会した。
- (馬超傳より)超は漢中に奔って張魯を頼ったが、魯は事を計るに足りず内心鬱していた。先主が成都を囲んだと聞いて密書で降を請うた。先主は喜んで「私は益州を得た」と言い、人を遣って超を迎えた。超が兵を率いて城下に至ると城中は震え怖れ、璋はただちに降った。
- 蜀中は豊かで、昭烈は酒宴を張って士卒を饗し、金銀を取って将士に分け賜い、穀と帛は民に返した。昭烈は益州牧を領し、諸葛亮を股肱、法正を謀主、関羽・張飛・馬超を爪牙、許靖・糜竺・簡雍を賓友とした。董和・黄権・李嚴らはもと璋の任用した者、呉壹・費観らは璋の姻戚、彭羕は璋に斥けられた者、劉巴はかつて忌み恨まれていた者だが、みな顕職に就けて器量を尽くさせたので、志ある士は競って励んだ。
- (趙雲別傳より)益州平定後、成都の中と城外の園地・桑田を諸将に分け与えようという議が出た。雲は「霍去病は匈奴未だ滅びずとして家を構えなかった。今の国賊は匈奴どころではなく、安を求めるべきではありません。天下が定まってからそれぞれ郷里に帰り本土を耕すのが筋です。益州の民は兵乱に遭ったばかりですから、田宅はみな返して安居させ生業に復させ、そのうえで役を課せば歓心を得られます」と反駁し、先主はただちに従った。
漢中王
- 建安二十年(215年)、孫権は昭烈が益州を得たので呂蒙を遣って長沙・零陵・桂陽の三郡を襲い奪った。折しも曹操が漢中を定めたので、昭烈は権と和を結び荊州を分けた。操が夏侯淵・張郃を漢中に屯させると、昭烈は張飛に郃らを破らせた。
- (張飛傳より)飛は巴西太守を領した。曹操が張魯を破って夏侯淵・張郃を漢川に留めると、郃は別に諸軍を督して巴西へ下り、民を漢中へ移そうとして宕渠・蒙頭・盪石に進み、飛と五十余日対峙した。飛は精卒一萬余を率いて別道から郃軍を邀撃し、山道が狭くて前後が救い合えぬところを破った。郃は馬を棄てて山に縋り、麾下十余人と間道から南鄭へ退いた。巴の地は安泰を得た。
- 建安二十三年(218年)、昭烈は漢中へ進兵した。二十四年(219年)、陽平から南へ沔水を渡り、山沿いに進んで定軍山の興勢に営を作った。淵が兵を率いて地を争ったので、先主は黄忠に高所から鼓を鳴らして攻めさせ、淵の軍を大破して淵らを討ち取った。
- (法正傳より)正はかねて「曹操は一挙に張魯を降して漢中を定めながら、その勢いで巴蜀を図らず夏侯淵・張郃を留め置いて自分は急ぎ北へ還った。智が及ばず力が足りぬのではなく、内に憂いと圧迫があるからです。今、淵と郃の才略はわが国の将帥に及ばぬと見ます。衆を挙げて討てば必ず克てます。克った日には農を広め穀を積み、隙を窺えば、上は寇敵を覆して王室を尊び奨め、中は雍・涼を蚕食して境土を広げ、下は要害を固守して持久の計とできます。これは天が我に与えるもので、時を失ってはなりません」と説き、先主はその策を善しとして諸将を率いて漢中へ進み、正も従軍した。
- (趙雲別傳より)操が漢中を争って北山の下に数千萬囊の米を運んだとき、黄忠が奪えると見て兵を率いて取りに行ったが期日になっても戻らない。雲は数十騎で軽装で迎えに出たところ、操が大挙して兵を出したのに出くわした。雲は前へその陣に突き入り、戦いながら退いた。操軍が営まで追って来ると、雲は営に入ってかえって門を大きく開き、旗を伏せ鼓を止めた。操は伏兵を疑って引き揚げた。雲は雷鼓を天も震わすほど鳴らし、ただ強弩で背後から操軍を射た。操軍は驚き騒いで互いに踏み合い、漢水に墜ちて死ぬ者が多かった。翌朝、先主は自ら前日の戦場を見て「子龍は一身すべて胆だ」と言った。
- 曹操が衆を挙げて南征したが、昭烈は衆を収めて守り、月を重ねても抜けず、操は軍を引いて還った。こうして昭烈は漢中を有し、秋に群下は昭烈を漢中王に推戴した。
- (黄忠傳より)忠はつねに先登して陣を破り、勇毅は三軍に冠たるものだった。定軍山で夏侯淵を撃ったとき、淵の衆は精鋭だったが、忠は鋒を摧いて必ず進み、金鼓は天を震わせ喊声は谷を動かし、一戦で淵を斬った。この年、先主は漢中王となり忠を後将軍にしようとした。孔明が「忠の名望はもともと関羽・馬超の類ではありません。今これを同列にすれば、馬超と張飛は近くにいてその功を見ていますが、関羽は遠く伝え聞くだけですから、きっと悦びますまい」と説くと、先主は「私が自分で解いてやる」と言った。
- (費詩傳より)先主が漢中王となり、詩を遣って関羽を前将軍に拝させた。羽は忠が後将軍になったと聞いて怒り、「大丈夫たる者、老兵と同列にはならぬ」と言った。詩は「王業を立てる者の用いる人材は一様ではありません。昔、蕭何・曹参は高祖と幼なじみでしたが、陳平・韓信は亡命して後から来た。班列を論ずれば韓信が最も上でしたが、蕭・曹がそれを怨んだとは聞きません。今、漢王は一時の功で漢升(黄忠)を重んじられたが、心中の軽重が君侯と等しいはずがありましょうか」と説いた。羽は大いに感じ悟り、ただちに拝を受けた。
- (王士騏の評)「漢王」の下の二語は文意が通らない。きっと「漢升」の誤りだろうと『華陽國志』に照らしたら果たしてそうだった。漢升は黄忠の字である。宋本がすでに誤り、監本もそれに従い、『将将紀』もまた従った。校書の難しさはこの通りである。
- (編者按)『華陽國志』に「今、王は一時の功をもって漢升を隆崇す」とあるほうが分かりやすい。
- (魏延傳より)先主が漢中王となり、漢川を鎮める重将を要したとき、衆論は必ず張飛だろうとし、飛も内心そう思っていた。ところが延を抜いて一軍を督させたので、みな驚いた。
- (編者按)昭烈の人の用い方には神明の測りがたいところがあり、高祖・光武に似ている。許靖を薄んじ馬謖を疑い、黄忠・魏延を抜擢したのがそれである。
即位
- 建安二十五年(220年)、曹丕が漢を簒い、漢帝が害されたとの伝えがあったので、昭烈は喪を発して喪服を制した。各地からそろって瑞祥を報じて即位を勧めたので、尊号を上って武擔の南で皇帝の位に即き、大赦して改元した。
- (費詩傳より)群臣が漢中王に尊号を称するよう議したとき、詩は疏を上って旨に忤らった。
- (習鑿齒の評)創業の君は大いに定まってから位を正すが、統を継ぐ主は速やかに立って衆心を繋ぐものだ。だから惠公が朝に虜となれば夕べに子圉が立ち、更始がなお存命でも光武は号を挙げた。主を忘れ利を求めたのではなく、社稷のためである。今、先主は義兵を糾合して賊を討とうとし、賊は強く禍は大きく、主は歿し国は喪われ、二祖の廟は絶えて祀られない。親しく賢い者でなければ誰がこれを継げよう。祖を嗣ぎ天に配するのは咸陽の喩え(子嬰の降伏)とは違う。正に仗って逆を討つのに、何の遠慮があろう。この時にあたって、速やかに有徳の者を尊んで大統を奉じさせ、民に反正を喜ばせ世に旧物を見せ、順に仗る者に心を一つにさせ逆に附く者を共に懼れさせることを知らぬのは、暗く惑っているというべきだ。費詩が降黜されたのは当然である。
- (編者按)統を継ぐ筋道を明らかにした文として、この一篇ほど痛快なものはない。
章武の末と托孤
- 章武元年(221年)、百官を置き宗廟を立て、高皇帝以下を祫祭し、子の禪を皇太子に立てた。帝は孫権が関羽を襲ったことを憤り、秋七月に諸軍を率いて呉を伐った。
- 章武二年(222年)夏六月、猇亭で軍が敗れ、陸路で魚復に還り、魚復を永安と改めた。孫権は昭烈が白帝にいると聞いて甚だ懼れ、使いを遣って和を請い、これを許して太中大夫の宗瑋を報命に遣った。
- 章武三年(223年)、昭烈は病篤く、丞相亮が成都から永安に至り、孤を丞相亮に託した。夏四月、帝は永安宮に殂した。時に年六十三。
- (亮集に載る昭烈の遺詔より)「朕の病は初め下痢だけであったが、後に他の病も加わり、もう助かるまい。人は五十で夭とは言わぬ。年すでに六十余、何を恨もう。ただ卿ら兄弟が気がかりだ。射君が来て、丞相が卿の知量の大きさに感嘆し、望んだ以上に伸びていると言っていたと聞いた。本当にそうなら、私に何の憂いがあろう。勉めよ、勉めよ。善が小さいからとやらずにいてはならぬ。悪が小さいからとやってはならぬ。ただ賢と徳だけが人を服させる。汝の父は徳が薄い、真似てはならぬ。『漢書』『禮記』を読み、暇には諸子と『六韜』を通読せよ。人の心得を益す。聞けば丞相が『申子』『韓非子』『管子』『六韜』を一通り書写し終えたが、送る前に道中で失われたという。自分で改めて求めて読め」。臨終に魯王を呼んで「私の亡き後、汝ら兄弟は丞相に父として仕えよ。卿は丞相と共に事をなせ」と言った。
- (楊慎の評)宋儒は、孔明が後主のために申・韓・管子・六韜を書写したことを論じて「孔明は経術で少主を輔導せず、なぜ刑名兵法なのか」と言う。唐子西は「人君には乱を撥めるか文を守るかを問わず、制略が貴い。後主は寛厚で襟量は十分だが権知が足りず、当時の識者はみな憂えた。『六韜』は兵権を述べて奇計が多く、『管子』は軽重を責め権衡を慎み、『申子』は名実を覈べ、『韓子』は事情を攻める。後主に施すのはまさに病に当たった処方だ。薬に高下はなく、要は病に対することにある。萬金の良薬も病に合わねば何の補いになろう」と言った。この言は当たっている。私はさらに『三國志』に、孟光が郤正に太子の人となりを問い、正が「虔恭仁恕」と答えたのに対し、光が「君の言うのはみな家庭内のことだ。私が今問うのは権略と知調がどうかということだ」と言った記事を見た。とすれば光の見方は孔明と合う。しかも申・韓の書を読ませるのは先主の遺命でもある。これを咎めて孔明を非難するのは、人の美を成さぬばかりか、時務を知らぬというものだ。
- (王世貞の評)儒は宋に至って偏った。彼らは三代以後を睥睨して末世に一つも可なるものなしとしながら、孔明にだけは心服せざるを得ない。その孔明は自ら管仲になぞらえ、後主には韓非子を読ませた。なぜか。宋儒の得たものが浅く、孔明の得たものが深いからだ。宋は名によって実を捨てたので、小さくは遼に遇って振るわず、大きくは金に遇って振るわなかった。孔明は実によって取ったので、小さな蜀が強い魏と角逐してつねにその上に踞った。
- 五月、梓宮は永安から成都に還り、惠陵に葬られた。
- (馬謖傳より)謖は才器が人に過ぎ、好んで軍計を論じ、諸葛亮は深く器として重んじた。帝は臨終に亮へ「馬謖は言が実に過ぎる。大用してはならぬ。君はよく察せよ」と言った。
- (陳壽の評)先主の弘毅寛厚、人を知り士を待つさまには高祖の風があり、英雄の器である。国を挙げて諸葛亮に孤を託し、しかも心神に二つなかったのは、まことに君臣の至公、古今の盛軌である。
- (劉知幾『史通』より)劉主は漢の宗室の地位にあり、順に仗って起ち、平坦であれ険しかれ撓まず、始めから終わりまで瑕がなかった。歴代の帝王に比べるなら少康・光武に並ぶ。
後主の代
- 建興元年(223年)、太子禪が即位し、丞相亮を武郷侯に封じ益州牧を領させた。
- 建興三年(225年)、丞相亮が南征。
- 建興五年(227年)、丞相亮が漢中に出屯して中原を図る。
- 建興六年(228年)、丞相亮が魏を伐ち街亭に敗れ、詔して亮を右将軍に貶め丞相の事を行わせた。冬、ふたたび魏を伐って陳倉を囲み、追撃の将王雙を斬った。
- 建興七年(229年)、右将軍亮が魏を伐って武都・陰平を抜き、あらためて丞相に拝された。
- 建興八年(230年)、魏が漢中に寇し、丞相亮が城固に出て次すると魏師は還った。
- 建興九年(231年)、丞相亮がふたたび出軍して祁山を囲み、魏の将張郃を斬った。
- 建興十年(232年)、士を休ませ農を勧める。
- 建興十一年(233年)、斜谷口に米を運ぶ。
- 建興十二年(234年)、亮が斜谷から出て、八月に軍中で卒した。帝は素服して三日哀を発し、丞相参軍の李邈を殺した。丞相長史の蔣琬を尚書令として国事を総統させた。
- (華陽國志より)李邈は字を漢南という。昭烈が益州牧を領したとき、邈は「振威(劉璋)は将軍を宗室の肺腑として賊の討伐を委ねたのに、元功も現れぬうちに先に寇に滅ぼされた。将軍がわが州を取られたのは甚だ穏当でない」と面と向かって責めた。有司が殺そうとしたのを諸葛亮が請うて免れさせた。久しくして丞相参軍となり、亮が馬謖を殺したときには「秦は孟明を赦して西戎に霸を唱え、楚は子玉を殺して二代振るわなかった」と諫めて亮の意に忤らった。亮が卒すると邈は疏を上って「呂禄・霍禹は必ずしも反叛の心を懐いていたわけではなく、孝宣も臣を殺すことを好む君ではなかった。ただ臣が主に迫ることを懼れ、その威を畏れたために姦の芽が生じたのです。亮は身に強兵を仗み狼のように顧み虎のように視、五大は辺に在らずの譬えのごとく、臣はつねにこれを危ぶんでおりました。今、亮が殞れて宗族は全うされ、西戎は静まり、大小ともに慶とすべきです」と述べた。帝は怒って獄に下し誅した。
- (王士騏の評)邈が死を免れたのは亮の力である。それを一言意に添わなかっただけで狼虎呼ばわりした。邈はまことに険しい人物だ。後主が怒って誅したのは、いささか溜飲が下がる。
- (編者按)後主は四十年、表立った事績がないので、後世は庸懦と嫌う。しかし私はひとり、その度量の大きさと英断を思う。大きなものが三つある。宮府の内外をことごとく丞相に委ね、途中で掣肘せず疑いも挟まなかったのが一つ。丞相の死後三十年、改変を事とせず丞相を置かなかったのが二つ。怒って李邈を誅したのが三つ。李邈の誅はことに奇で、「いささか溜飲が下がる」どころではない。なお、邈の罪が誅に当たるのは後の疏についてで、前の二つの発言は必ずしも不当ではない。
- 建興十三年(235年)、蔣琬を大将軍に進め、費禕を尚書令とした。
- 延熙元年(238年)、蔣琬が漢中に出屯。
- 延熙二年(239年)、琬を大司馬に進め、費禕を大将軍とした。九年(246年)、蔣琬が卒す。
- 延熙十一年(248年)、大将軍費禕が漢中に出屯。
- 延熙十六年(253年)、大将軍費禕が魏からの降人に刺された。
- 延熙十九年(256年)、姜維を大将軍に進める。
- 景耀六年(263年)、魏の将鄧艾・鍾会が道を分けて侵入し、都督の傅僉が戦死した。衞将軍諸葛瞻が防いだが綿竹に敗れ、帝は光禄大夫譙周の策を用いて艾に降ろうとした。北地王諶は怒って「理窮まり力尽きたなら、父子君臣が城を背に一戦し、共に社稷に死んで先帝にまみえるべきです」と言ったが、帝は聴かなかった。諶は昭烈の廟で哭し、まず妻子を殺してから自殺した。衞将軍瞻と瞻の子尚、尚書郎の黄崇も共に戦死した。
- (編者按)北地王は後主の子、傅僉は傅肜の子、黄崇は黄権の子である。肜は呉伐で死に、僉は魏を拒いで死んだ。瞻・尚と僉は、代を重ねて忠孝を成したというべきだ。父が降虜となりながら子が忠孝であった諶と崇も、亡父の失を正した(幹蠱)というにふさわしい。崇は瞻に速やかに進んで険に拠り敵を平地に入れるなと勧めており、深く将略があった。軍士を励まして必死を期したその勇烈は僉に劣らない。『綱目』は崇をわずかに分注に入れるだけなので、ここに併せて録し、漢に忠なる士を表す。
- (張飛傳より)飛の長子苞は早世し、苞の子遵は尚書となり、綿竹で諸葛瞻に従って戦死した。
- (趙雲傳より)雲の次子廣は牙門将となり、姜維に従って沓中で陣に臨んで戦死した。
- (姜維傳より)傅僉は格闘して死に、魏の人はこれを義とした。