- 要旨: 漢書五行志の誤りを「引書失宜」「叙事乖理」「釈災多濫」「古学不精」の四科二十九目に分けて指摘する。
第一科——引書失宜(四種)
- 引き方の失は四つある。史記と左氏を交錯させて併せること、春秋と史記を雑ぜて分けにくくすること、しばしば春秋を挙げながら言い方に定まった体が無いこと、書名の取捨が記述ごとに揃わないことである。
- 志は「言之不從」を叙べるのに、まず「史記に、周の単襄公が魯の成公に告げて『晉に将に乱あらん』と言った」と称し、次に「宣公六年、鄭の公孫曼満が王子伯廖と語って卿になりたいと言った」と称する。宣公六年の記事は左傳から採ったものである。上で単襄公を論ずるときは史記を冠に立てるのに、下で曼満を列するときは左氏を落として何も言わない。読者はこの宣公が上の史記から続くのかと疑い、魯とも言わないのでどの国か定まらない。是非も悟りがたく進退に準が無い。これが史記と左氏を交錯させて併せた例である。
- 志は「史記の成公十六年、公、齊侯と周に会す」という。成公とは魯侯である。班氏は魯の某公を説くときは必ず「春秋」を冠にする。春秋は魯史の号だから、春秋といえば公が魯公だと分かるからである。ところがここでは史記を先に置き成公を下にする。書は魯史でないのに公は魯の名を捨てていない。膠で柱を固めて動かさず守株のようである。これが春秋と史記を雑ぜて分けにくくした例である。
- 班書の志は漢を主とするので、漢の時のことは直ちに帝の号や諡を記し、他の時代は「某書、某国の君」という。これが大例である。ところが火が炎上しないことを叙べるところでは春秋の桓公十四年と具さに書き、次に稼穡が成らないことを叙べるところでは「嚴公二十八年」とだけ言う。火と稼の間に漢や王莽の事を別に書いて年代が隔たり、魯からいっそう遠くなっている。ところが説を改めて異端を述べるときはまた春秋から始めるのに、嚴公の上に「春秋」の名を立てない。おかげで漢の帝と魯の公が同じ扱いになる。永例とするなら理として容れられもするが、他の異科ではそうしていない。画一を求めてもその例に常が無い。これがしばしば春秋を挙げながら言い方に定まった体が無い例である。
- 本志は漢以前の事を叙べるとき多く書名を略す。ところが服妖の章では、初めに「晉の献公が太子に師を率いさせ金玦を佩びさせた」といい、続いて「鄭の子威が鷸の羽を集めた冠を好んだ」というが、この二事の上にいちいち「左氏」を冠に加える。一度言えば済むのに二度名を列している。省くときはまったく捨て、繁しいときは甚だしい。これが書名の取捨が揃わない例である。
第二科——叙事乖理(五種)
- 叙事の失は五つある。発端だけを述べて検証が伴わないこと、古語を虚しく編んで事を最後まで論じないこと、当時の談を直に引くだけで他に述べないこと、科条が整わず尋ねにくいこと、年号の挙げ方に詳略の準が無いことである。
- 志は「左氏の昭公十五年、晉の籍談が周に行き穆后を葬った。喪を除いてから宴し、叔向が『王はそれ終わらざらんか。楽しむところに必ず死ぬと聞く。今、王は一年に三年の喪が二つある。それなのに喪の賓と宴楽するのは憂いが甚だしい。礼は王の大経である。一動して二礼を失えば大経が無い。何に用いるのか』と言った」という。その七年後、王室は羊舌肸(叔向)の言のとおりになった。これがその験である。ところが班氏はまったくそれを言わない。これが発端だけで検証が伴わない例である。
- 志は「左氏の襄公二十九年、晉の女齊が智伯に『齊の高子容と宋の司徒はどちらも免れまい。子容は専らで司徒は侈っている。どちらも君主を亡ぼす者だ。専らならば速やかに及び、侈れば力によって斃れよう』と語った。九月、高止が北燕に出奔した」と載せ、ここで終えて他に何も説かない。左氏の昭公二十年に宋の司徒が陳に奔ったとある。班氏は本傳から採りながら片言だけを写した。全書を閲しながら半分の事しか徴さない。おかげで学ぶ者は左丘明の説に是と非があり、女齊の言に得と失があるかのように疑う。これが古語を虚しく編んで事を論じ終えない例である。
- 志は「成帝は鴻嘉・永始の年に微行を好み、私田を民間に置いた。谷永が諫めて『諸侯は田を得る夢を国を失う兆しと占う。まして王者が私田や財物を蓄えるのは庶人の事である』と言った」という。以下、成帝が改めたかどうか、谷永の言に効があったかどうかを言わない。諫めの詞は具わっても事が欠けている。これが当時の談を引くだけで他に述べない例である。
- 庶徴の恒寒を述べるところでは、まず「僖公十年冬、大いに雹が降った」といい劉向の占を載せ、次に「公羊の経に『大いに雹降る』とある」といい董仲舒の解を続ける。公羊の説は上と何が違うのか。どちらも「大いに雹降る」と言ってこの科に入れている。また大雪と雹を言い、続けて霜が降りて草を殺したことを言い、春秋から漢代まで述べ終えたところで、また雹の災を重ねて叙べる。分散して離れ、断絶して筋が無い。同じ一類なのに二条に分け、首尾が入り乱れ章句が錯糅している。これが科条が整わず尋ねにくい例である。
- 人君が改元するのは劉氏(漢)に始まり、史官の録は凡例を存すべきである。ところがこの志の異を記すところは、まず元封の年号を列するのに漢のどの君か示さず、次に地節・河平については宣帝・成帝を具さに述べる。武帝の元鼎については毎年書き、哀帝の建平については同年でも必ず録する。これが年号の挙げ方に詳略の準が無い例である。
第三科——釈災多濫(八種)
- 災を釈く失は八つある。前世を商量して故実にまったく違うこと、影響が接しないのに牽き寄せて合わせること、敷き延べが多端で拠るべき主が無いこと、軽々しく善政を持ち出して妖禍に配すること、解釈を申べるだけで符応を示さないこと、考覈は正しくても義理が精しくないこと、妖祥が分かるのに黙って説かないこと、経典に循わず胸中に任せることである。
- 志は「史記に、周の威烈王二十三年、九鼎が震えた。この年、韓・魏・趙が晉を簒って地を分け、威烈王は命じて諸侯とした。天子が同姓を恤まずその賊臣に爵を与えたので、天下は附かなくなった」という。しかし周は戦国の世に当たって微弱がとくに甚だしく、君は斧を竊まれたかと疑い、台は債を逃れる名で呼ばれた。泗上の諸侯や附庸の小国と変わらない。三晉が跋扈して諸侯になろうとしたのは、王命を借りていても実は自ら出たことである。近代に王莽が安漢公と称したのが平帝の至誠でなく、董卓が太師と号したのが献帝の本願でないのと同じである。それを威烈王が妄りに爵賞を施したと責め、坐して妖孽を招いたとするのは、人の真偽を知る者といえるだろうか。これが前世を商量して故実に違う例である。
- 志は「昭公十六年九月、大いに雩した。これより先、昭公の母の歸氏が薨じたのに昭公は戚しまず比蒲で蒐(巻狩)をした」といい、また「定公十一年九月、大いに雩した。これより先、公が鄭を侵して帰り中城を築き、二大夫が鄆を囲んだ」という。しかし比蒲の蒐は昭公十一年、中城の築造と鄆の囲みは定公六年のことである。この二役は雩からいずれも一年以上隔たっている。国家の常事によって災を延き、歳月がすでに遠いのにようやく響応を聞くとは、烏有の説を成し寂しさを叩いて辞を作るものではないか。これが影響が接しないのに牽き寄せて合わせる例である。
- 志は「嚴公七年秋、大水。董仲舒・劉向は、嚴公の母の姜が兄の齊侯と通じてともに桓公を殺し、嚴公が公の讐を釈いて齊の女を娶り、入る前に先に通じ、一年に再び出て道で会したので、逆乱を臣下が賤しんだ応じだとする」といい、また「十一年秋、宋に大水。董仲舒は、当時、魯と宋が年を連ねて乗丘・鄑の戦いをしたので百姓が愁い怨み、陰気が盛んになって二国ともに水害を受けたとする」という。
- この説には三つの失がある。嚴公十年・十一年、公は宋の師を乗丘と鄑で破った。勝ちを制し敵に克ったのだから勲を策し賞を命じ、栄えを祈り福を降すべきなのに、逆に愁い怨んで災を招くというのが失の一。しかもこれより数年前に嚴公は大水に遭っており、時月を較べれば戦の前である。それを宋と兵を交えたから二国が大水になったというのが失の二。まして七年の内ですでに水災を釈いており、初めは齊の女を辞とし終わりは宋の師を応じとする。前後が定まらず、どちらに拠るのかというのが失の三。一つの災を示すのに三説が競い興っている。これが敷き延べが多端で拠るべき主が無い例である。
- 「厥の咎は舒、厥の罰は恒燠」を釈いて「その政が弛慢で失が舒緩にあるから燠をもって罰し、冬なのに氷が張らない」とする。春秋の氷が無いことを解くにも、みな内は黎庶を失い外は諸侯を失い、誅賞を行わず善悪を明らかにせず、蛮夷が夏を乱しても天子が討てず、大夫が権を専らにしても邦君が制せられない、という説である。
- 次に武帝の元封六年冬、氷が無かったことについては「これより先、衛青・霍去病の二将軍を遣わして単于を窮追し、十余万級を斬った。帰って大いに慶賞を行い、上はまた勤労を憫れみ、使者を遣わして天下を巡行させ、鰥寡に恵み、困窮に貸し与え、遺逸・独行の君子を挙げて行在所に詣らせ、郡国に便宜があれば丞相・御史に上らせて聞かせた。ここに天下はみな喜んだ」という。
- 漢の帝の武功文徳はあのとおり、先に猛く後に寛やかなことはこのとおりである。どこに懦弱で凌遅する失があり、刑罰で戡定する功が無いというのか。氷が無いことだけを災として、昔の人と同罪だといえるだろうか。矛と盾が自らに始まり首尾が違う。これが軽々しく善政を持ち出して妖禍に配する例である。
- 志は「孝昭の元鳳三年、太山に大石が立った。眭孟は庶人で天子となる者があるはずだと考えた。京房の易傳は『太山の石が転げ落ちれば聖人が命を受け、人君は虜となる』といい、また『石が山に立てば同姓が天下の雄となる』という」といい、しかしこれが孝宣皇帝の即位の祥であることを言わない。宣帝は閭閻から出て坐して至尊に登った。「庶人が命を受ける」である。曾孫の血族として上って皇統を纂いだ。「同姓の雄」である。昌邑王が廃されて遠方に謫居した。「人君の虜」である。班書はこの徴祥を載せて剖折を具えながら、後の応じを縷々陳べない。叙事の宜しさがこれでよいのか。文に欠けがあるなら、何のために言を載せるのか。これが解釈を申べるだけで符応を示さない例である。
- 志は「成帝の建始二年、小女の陳持弓、年九歳が未央宮に走り入った」といい、「綏和二年、男子の王褒が北の司馬門から入って前殿に上った」という。班志は証拠を挙げてはいるが言が疎闊である。演べて申べればこうである。女子の九歳は陽数の極み。男子の王褒の「王」は王莽(巨君)の姓。司馬門から入って殿に上るのは、王莽が初め大司馬となり、哀帝の時に国に就き、帝の崩後もこの官のまま位を簒ったことに当たる。司馬門から入って殿に上るのは、司馬から至尊に升るのと同じである。災祥が兆しを示す事はきわめて明らかなのに、忽せにして書かない。略が甚だしい。これが解釈は正しくても義理が精しくない例である。
- 志は「哀帝の建平四年、山陽の女子の田無嗇が懐妊三月で、児が腹の中で啼いた。生まれても育てず陌上に葬ったが、三日して通りかかった人が啼き声を聞き、母が土を掘って収め養った」という。この妖災を述べながら解釈がまったく無い。
- 人が胞から育つまで、霊を含み気を受けるのに始末があり前後に定まった準がある。孕みの間に啼き声を発するのは、物に基業がありながらまだ彰れず形象がすでに兆すようなもので、王氏が国を簒う徴である。生まれても育てず葬っても死ななかったのは、物に期運が定まっていて誅剪では平らげられないようなもので、王氏が命を受ける応じである。しかも班固自身が「小女の陳持弓」というとおり、陳は王莽の出た姓であり、「女子の田無嗇」の田は王莽の本宗である。事が同じ占なのに言が一律でない。一を知って二を知らないというものである。これが妖祥が分かるのに黙って説かない例である。
- 春秋の時、諸国に賢俊は多い。沙麓が崩れ、梁山が崩れ、鷁が宋の都で退き飛び、龍が鄭の水で交わり闘ったとき、伯宗や子産はそれが妖でないことを具さに述べ、卜偃や史過は必ず応ずると盛んに言った。当時の識ある君子が美談としたので、左氏はこれを書いて後裔に遺した。
- ところが古今の路が阻まれ見聞が隔たると、漢代の儒者である董仲舒・劉向の徒が別に異聞を構え他説を輔け申べた。後学をもって先賢を凌ぐもので、今の諺にいう「弟が兄と嫂を争う」ものである。それなのに班志は長を捨てて短を用い、旧を捐てて新に習い、異同を出して博識を誇る。その識の無さが見えるだけである。これが経典に循わず胸中に任せる例である。
第四科——古学不精(三種)
- 古学の失は三つある。前書を博く引きながら網羅が尽くされないこと、左氏を兼ね採りながら遺漏が甚だ多いこと、しばしば旧事を挙げながらその出所を知らないことである。
- 志は「庶徴の恒風について、劉向は春秋にその応じが無いとし、劉歆は僖公十六年の左氏傳に六鷁が退き飛んだことがこれに当たるとする」という。旧史は「劉向は穀梁を学び、劉歆は左氏を学んだ」という。祖述するところが異なれば見聞が同じでないのは確かである。
- しかし周の木が抜け、鄭の車が濟で倒れたことは、風の害として尚書・春秋に見えるのに、劉向は略して言わず、劉歆は知りながら伝えない。また多くの怪を詳しく言い、群妖を歴叙しながら、両つの蜮を災としながら趙の毛が地に生じたことを録さず、異なる鳥が互いに育てたことを書きながら宋の雀が鸇を生んだことを載せない。小を見て大を忘れ、軽を挙げて重を略している。学に同じでないところがあり、識に通じた鑑が無いからである。
- 炎漢の代にもとくに奇なる異がある。景帝の承平のとき赤い風が血のようであったこと、于公が職にあったとき亢陽で旱だったことは、紀と傳にそれぞれその祥を具えるのに、志の中にだけその説が無い。これが前書を博く引きながら網羅が尽くされない例である。
- 左傳は「宋人が狂った犬を逐い、華臣が陳に出奔した」といい、「宋の公子它が白馬を持っていて、景公が奪って尾と鬛を朱く染めた。它の弟の辰が蕭に拠って叛いた」という。班志はこの二事を書いて犬馬の禍とする。
- しかし左氏の載せるこの類は実に多い。季氏の逆は闘鶏に芥を付けたことに由り、衛侯の敗は鶴を養って軒に乗せたことに因る。曹は雁を獲たことから亡びの端が生じ、鄭は黿を解いたことから殺しが芽生えた。郄至は豕を奪われて家が滅び、華元は羊を烹て卒に奔った。白黒の祥、羽毛の孽をいうなら、なぜこれらを捨てて論ぜず、犬馬だけを徴すのか。これが左氏を兼ね採りながら遺漏が甚だ多い例である。
- 太史公の書は、春秋以前の国家の災眚や賢哲の占候をみな左氏・國語から出している。ところが班志の引くところは上は周の幽王・厲王から下は魯の定公・哀公までなのに、國語と言わずに史記とだけ称する。本を忘れて末に徇い、近きを逐って遠きを棄てるものではないか。これがしばしば旧事を挙げながら出所を知らない例である。
総評
- 定めた目は凡そ二十九種である。ただし失が多くて論じ尽くせないので、目ごとに一事を挙げるにとどめた。類に触れて広げれば他も知れる。
- この志の作は、吉凶を明らかにし休咎を釈き、悪を懲らし善を勧めて将来を誡めるためのはずである。ところが春秋以来、漢代までの日蝕・地震・石隕・山崩・雨雹・雨魚・大旱・大水・鶏や豕の禍・桃李の冬の花などは、災を直叙するだけでその応じを言わない。それでは魯史の春秋、漢書の帝紀にすぎない。この志に重ねて編む必要がどこにあるのか。
- 昔、班彪(叔皮)は「司馬遷は司馬相如を叙べるのにその郡県を挙げるが、蕭何・曹参・董仲舒ら同時代の人については字を記さず、県を挙げて郡を挙げないこともある。暇が無かったのであろう」という。班固のこの志の錯謬の多さも、刋削が周からなかったせいであろうか。そうでなければ、なぜこれほど脱落が甚だしいのか。
- 穿鑿して文を成し、強いて異義を生じたものもある。蜮を「惑」とし、麋を「迷」とし、五つの石が隕ちたのを齊の五子の徴とし、七つの山が崩れたのを漢の七国の象とする類。叔服が葬に会し成伯が来奔したことを亢陽が妖を成す理由とし、鄭が許と地を易え魯が萊国を謀ったことを苗を食う禍の理由とする類である。この種の事は甚だ多い。ただ解釈があるだけで観採するに足りない。知音の君子が詳らかにされることを望む。