- 要旨: 史の才は文の才とは別物なのに、世が文藻を重んじるため文士ばかりが史官に任ぜられ、史書が損なわれている、という批判。
史才の難しさ
- 史才の難しさは甚だしい。晉令に「国史の任は著作に委ねる」とあり、著作郎が着任するたびに必ず名目傳を一つ撰させた。その拠って来るところを察するためで、才が無ければ史の任に居ることはできない。
- 古の作者を歴観すると、蔡邕・劉孝標・徐陵・劉炫の徒はみな著書に長け史体に達していると自任した。しかし一節を見れば他も知れる。
- 蔡邕(伯喈)は東方朔の上書について「班固の天文志を広げるべきだ」と言う。しかし天文は漢史にとって最も甚だしい贅肉である。摘発するなら鋤いて除くべきなのに、その過失を残したうえに蕪雑を増そうとする。河が傾く患いを見て堤防で防がず、疏いて導こうとしてかえって洪水の害を速めるのと変わらない。これで史を述べるのを練達といえるだろうか。
- 劉孝標は論を持し理を析くことにかけては絶倫だが、自叙の一篇は煩碎に過ぎる。山西の一志はただ文章を論ずるだけで、司馬遷・班固に肩を並べ陳寿・范曄と比べられるものではない。
- 徐陵(孝穆)は齊にあって梁史を志したが、江左に帰ってついに書は成らなかった。徐公の文体を史傳に施すのは、覇上の児戯を真の将軍に比べるようなものである。幸いにも力を量って着手しなかったのは、自ら卜って審らかだったというべきである。
- 劉炫(光伯)は洪儒碩学でありながら不遇に沈み、鋭意自叙を書いて将来に示そうとした。しかし言はみな浅俗で理に要害が無い。「詩三百を誦するも、多しといえどもまた何をか以てせん」というたぐいである。
文と史は別の道
- 孔子は「文が質に勝てば史なり」と言う。史とは当時の文であった。しかし朴が散じ淳が消え、時が移り世が変わって、文と史は明らかに轍を異にした。
- だから張衡の文をもってしても史に習わず、陳寿の史をもってしても文に習わない。両都を賦し八詠を裁ちながら漢冊を編み次ぎ宋典を勒せる者が、どれほどいようか。
- 近代を略観すると、文章に名を連ねながら史傳を兼修した者の書き方はこうである。羅含・謝霊運はさながら歌頌の文、蕭繹・江淹はそのまま銘賛の序である。温子昇はとくに重複した語を喜び、盧思道は麗しい詞を好み、江總は猖獗として沈迷し、庾信は軽薄で流宕する。おおむねこうである。
- しかもこの数人が撰したのは偏記・雑説の小巻・短書にすぎない。それでこの乱れようなのだから、まして一家を刋勒し一代を彌綸し、始末を円備させ表裏に咎が無いようにせよと責めるのは無理である。
文士ばかりを史官にする弊
- 世が文藻を重んじ、詞が麗淫を宗とするようになって、沮誦(史の祖)は路を失い屈原(霊均)が要職を占めた。西省に職が空き東觀が才を待つたびに、拝授されるのは必ず文士である。
- おかげで筆を握り鉛を懐く者に銓綜の職が無く、章を連ね牘を累ねても微婉の言に逢うことはまれになった。しかも世を挙げてそれを能事とし、当時は誰も侮ろうとしない。
- 仮に間に班彪・華嶠と同じ術を持ち班固・荀悅ほどの才があり、独見の明を懐いて不刋の業を負う者がいても、みな流俗に窘められ朋党に嗤われる。糟を食い醨を歠って妄作に同じ、褐を被て玉を懐きながら自ら陳べる道が無い。管仲のいわゆる「君子を用いながら小人を参ぜしめるのは覇を害する道」である。
- 傅玄は「班固の漢書を観れば実に代を命ずる奇作である。しかし陳宗・尹敏・杜撫・馬厳と撰した中興紀傳の文はまるで観るに足りない。時に拘束されたのだろうか。そうでなければ、なぜこれほど不揃いなのか」と言う。その後、劉珍・朱穆・盧植・楊彪の徒が継いで成したが、これも各々時に拘束されて意を尽くせなかったのだろうか。いよいよ陋しくなっている。
- 時に拘束される患いは古くからのことである。古来嘆かれてきたことで、今に限らない。