- 要旨: 前人の書の趣旨を捉えそこねたまま穿鑿して説を立てる後学を批判し、孫盛・葛洪・李徳林・魏收らの説を一つずつ論駁する。
穿鑿の弊
- 古の述作には理由がある。取捨が明らかにしがたく是非が入り乱れるので、書は典・誥に編まれて孔子がその流れを弁じ、詩は風・雅に列して子夏(卜商)がその義を通じた。
- 前哲の作を後人が観るとき、その指帰を取り違えれば伝授しにくい。妄りに穿鑿を生じ軽々しく本源を論じては、作者の深旨に乖き後学を誤らせる。誤りとして甚だしい。
孔子が春秋を作った理由
- 孔子が魯史を作ったことを、学者は「麟に感じて作った」とする。しかし子思は「吾が祖は陳・蔡に厄せられた」と言う。子孫に伝えられた言に照らせば、実録を求めても取り違えは起こりにくい。
- 事の義は微婉を包む。苺を攫んだ出来事に因って詞を創め、西狩の時に逢って麟に泣き筆を絶ったのである。儒者はその一を知って二を知らず、「袂を反して面を拭い、吾が道は窮まれりと称した後に五始を追論し三叛の名を定めた」と考える。独学で友が無く、孤陋寡聞の致すところではないか。
孫盛の説への反論
- 孫盛は「左氏春秋は吳・楚を書くのに略し、荀悅の漢紀は匈奴を述べるのに簡である。夷狄を賤しみ諸夏を貴ぶからだ」という。
- しかし春秋の時代は諸国が並び立ち関所や橋が通じておらず、史官の書くところは網羅しきれなかった。漢の世に四海が一家となり、司馬遷が傳を垂れて以来、古の遺文も州郡の上計もまず太史に集まったのとは違う。まして吳・楚は南の辺に僻して江山に隔てられ、魯からはとくに遠い。左丘明の録が備わるはずがない。
- 仮に蛮夷だから略したのなら、駒支が晉の会に列し、長狄が魯の門に埋められ、介葛盧が牛の鳴き声を弁じ、郯子が鳥の官を知ったことはどうなのか。いずれも辺隅の小国で人品も最も微かなのに、その瑣事まで収めて方冊に見えている。まして上国の盟を主どり、勢いは宗周に迫り、諸華と長を争い、威は強晉を凌いだ吳・楚を遺すはずがない。
- 荀悅の書は班史を抄撮したもので、事を取るのに中外を一概にし夷夏を均しくしている。胡の郷だけを略して漢室だけを詳しくしたわけではない。孫盛は左丘明が吳・楚を擯けたと疑ったあげく、荀悅(仲豫)が匈奴を抑えたと誣いた。庸音を強奏し、わざわざ曲を足したものである。
葛洪の説への反論
- 明月の珠にも瑕はあり、夜光の璧にも疵はある。だから作者の書に病や累があるのに、後生がその過ちを詆ることができず、かえって非を文飾し、推し広げて強いて説を作る例が多い。
- 葛洪は「司馬遷は憤りを発して史記百三十篇を作り、伯夷を列傳の首に置いたのは、善を為しても報いが無いことを示すためであり、項羽を本紀に列したのは、高位に居ることが徳と関わらないことを示すためだ」という。
- しかし史の書は、事があれば記し、事が無ければ闕く。司馬遷は古今数千年を馳せめぐったが、春秋以前で遺事を得られたのは首陽山の二子(伯夷・叔齊)だけである。仮に夷齊が秦に生まれ漢に死んだのに傳の首に昇せたのなら意図があると言えようが、先後を考えて順に編次しただけなら、理の常であって怪しむに当たらない。
- 司馬遷が「善にして報い無し」を理由に傳の始めとしたのなら、伍子胥・大夫種・孟軻・墨翟・賈誼・屈原ら、仁を行って遇われず忠を尽くして戮された者たちを、なぜ品類ごとに一科にまとめず、篇目を異にして巻を分けたのか。
- 司馬遷の紕繆はほかにも多い。陳勝を世家としたのが根拠が無いというなら、項羽を本紀と称したのに何の根拠があるのか。腐刑に遭って武帝を怨み刺したから凡例に激切な志を寄せたというなら、黄老を先にして六経を後にし、奸雄を進めて処士を退けたことは何のためなのか。
李徳林の説への反論
- 隋の内史・李徳林は論を著して「陳寿は蜀の人であり、三國志は蜀に党して魏を抑えた」と称し、これを国史に刋して格言とした。
- しかし曹操が王業を創めるにあたっては、母后を賊殺し主上を幽逼した。罪は田常の百倍、禍は王莽の千倍である。文帝は戎に臨んで武からず、国を治めて奢りを好み、賢良を害するに忍び、骨肉を疎んじ忌んだ。それなのに陳寿の評はどれも曖昧で、はっきり言うところが無い。
- 劉備は漢の宗室に地を占め、順に仗って起こり、夷険に撓まず終始瑕が無かった。帝王になぞらえれば少康・光武に比べられ、侯伯に喩えれば秦の繆公・楚の莊王と輩を同じくする。それなのに陳寿の評はその長を抑えて短を攻める。
- つまり魏を正朔の国とし、晉(典午)がそれを承け、蜀は僭偽の君で中朝の憎むところだったから、曹氏の美を典として称え、劉氏の非を虚しく説いたのである。曹に背いて劉に向かい、魏を疎んじて蜀に親しむわけがない。文が無いのに説だけがあるのは、虚に憑いた無いものねだりである。
習鑿齒・魏收への論
- 習鑿齒が漢晉春秋を撰して劉氏(曹魏)を偽国としたのは、邪正の途を定め逆順の理を明らかにするためである。
- ところが檀道鸞は「桓氏が政を執っていた時なので、この書を撰して簒奪の望みを絶ち、鹿を逐う動きを防ごうとしたのだ」という。
- 古来の学士が文を作って上を諷した例は多い。齊倫(司馬倫)が徳を失えば豪士賦が作られ、賈后が無道なら女史箴が献じられた。いずれも短い篇で、手軽に成せるものである。三国の体統を変え五行の正朔を改め、一史を勒して千載に伝えるほどのものを、その権を借りて物を済し当時を誡めるために書いたというなら、労して功無く、博くして要でない。班彪の王命論と何が違うのか。人情に求めて理に当たらない。
- 二京が板蕩し五胡が制を称して以来、崔鴻は諸々の偽史を集めて春秋を成した。列するのは十六家だけである。
- 魏收は「崔鴻は代々江左に仕えたので司馬氏・劉氏・蕭氏の書を録さず、また識者に咎められることを恐れて外に出さなかった」という。
- しかし当時、中原に主が無く海内は乱れ、東南こそが正朔であった。素王が再び出て南史が生き返っても、これに異同を立てて議に忤らうことはできない。魏書に録が無いからといって崔鴻(彦鸞)に罪を帰せるだろうか。
- 崔氏の祖が吳朝に仕えたから南国に私したというなら、その先が広・閩に移り住み慕容氏に質を委ねたことはどうなのか。それなら南燕を書いて群胡と並べ列するはずがない。愛憎の道がそんなものであろうか。
- 崔鴻の書の綱紀は晉を主としている。班書が吳・項を載せるのに必ず漢の年に繋け、陳志が孫・劉を述べるのにみな魏の世を宗としたのと同じである。事を遺し書を取らないというだけの話ではない。
- 魏收(伯起)は自ら魏史を作り、傳に島夷を列した。中国が書を著して江表を推し崇めることを望まなかったので、崔鴻の志に仮託して魏の羞を紓めたのである。
- しかも東晉の史は、載せるところがほぼ三百篇であるのに、偽邦の墳籍はわずか百巻に満たない。仮に魏收が崔鴻の失を矯めて南北を混ぜて書いたなら、四分の三の事が江外に帰することになる。肥瘠が類しないうえに衆寡も均しくない。加えて東南の国史はみな紀傳を必要とし区別が要る。体統が純粋でなくなり、編次しにくくなる。魏收の矯妄は言い尽くせない。
- 諸家の異説を考え作者の本意を参ずれば、自らの胸懐から出て枉げて探賾を申べたり、妄りに同異を加えたりしたものがある。流俗の腐儒や後来の末学がその狂狷に習い、誤りを重ねて「見ぬものを見た、聞かぬものを聞いた」と自称し、舌端に銘じて口実とする。ただ智者だけが惑わず、疑うところが無い。