史通六家第一

  • 要旨: 古今の史書はその体裁によって尚書家・春秋家・左傳家・國語家・史記家・漢書家の六つに分類できるが、後世に受け継ぐに足るのは左氏(編年)と漢書(紀伝)の二家だけである、という主張。

六家という分類

  • 帝王が文籍を編み述べて以来、史の言は備わった。古今で質と文とが入れ替わり、諸史の体裁は一定していない。
  • 総括して論ずれば、その流れは六つある。尚書家・春秋家・左傳家・國語家・史記家・漢書家である。以下、順にその義を述べる。

尚書家

  • 起こりは太古に遡る。易に「河は圖を出し洛は書を出す。聖人これに則る」とあり、書の起源が遠いことが分かる。孔子が周室で書を見て虞・夏・商・周四代の典籍を得、その善いものを選んで尚書百篇を定めた。
  • 書名の解には三説がある。孔安国は「上古の書だから尚書という」といい、尚書璇璣鈴は「尚とは上のことで、上天が文を垂れて節度を布くのが天の運行のようだからだ」といい、王肅は「上の者の言を下の史が書きとめるから尚書という」という。三説は一致しない。
  • 書の主とするところは号令であり、王道の正義を宣べ、臣下に話言を発するものである。だから典・謨・訓・誥・誓・命の文ばかりを載せる。ただし堯典・舜典は人事を叙し、禹貢は地理を言い、洪範は災祥を総べ、顧命は喪礼を陳べており、例としては純粋でない。
  • 周書は尚書に類するもので、孔子が百篇に刪ったその外の七十二章にあたる。上は文王・武王から下は靈王・景王までで、明允篤誠・典雅高義の文がある一方、浅薄な常説も混じり、後世の好事家が増補したように見える。職方の言は周官と変わらず、時訓の説は月令と多く同じである。百王の正書、五経の別録というべきものである。
  • 周が滅んでからこの体は廃れ、漢・魏には継ぐ者が無かった。晉の廣陵相・孔衍(魯國の人)が「国史は言行を表し法式を昭らかにするためのもので、人としての常事まで並べる必要は無い」として、漢魏の諸史から美詞・典言で鑑となるものを選び、篇を定めて一家を成した。こうして漢尚書・後漢尚書・漢魏尚書、計二十六巻ができた。
  • 隋の秘書監・王邵(太原の人)も開皇・仁壽年間の事を録し、類ごとに編んで隋書八十巻を成した。その義例はすべて尚書に準じている。
  • しかし尚書の記し方は、君臣が向き合って言葉が称すべきものであれば一時の言を数篇にわたって載せ、記すに足りない言は載せない。事は脱落しても読者はそれを咎めなかった。
  • 中世以降は文籍が大いに備わったのだから、今の文を切り取って古の法をまねるのは、道を改めるどころか守株にあたる。孔衍(元舒)の撰した漢魏等の篇が世に行われなかったのはこのためである。
  • 帝王に紀が無く公卿に傳が欠ければ、年月の順序が乱れ爵位や出身が分からなくなる。これは昔は軽んじられたが今は要となる点である。王邵(君懋)の隋書は商・周を祖述し虞・夏を憲章しようとしたが、その体制は孔子家語や臨川(劉義慶)の世説に似てしまった。虎を描いて成らず犬に類したというべきで、当代に嗤われたのも理由のあることである。

春秋家

  • 起こりは三代に遡る。汲冢の璅語は太丁の時の事を記して夏殷春秋と題している。孔子は「疏通して遠きを知るのは書の教え、辞を属し事を比べるのは春秋の教えだ」と言った。春秋の始まりが尚書と同時であることが分かる。
  • 璅語には晉春秋があって獻公十七年の事を記す。國語には晉の羊舌肸が春秋に習熟し、悼公がその太子に伝えさせたとある。左傳昭公二年には晉の韓宣子が来聘して魯の春秋を見、「周礼はことごとく魯にあり」と言ったとある。春秋という名は一家のものではなく、埋もれて伝わらないものは数えきれない。
  • 竹書紀年の記す事はすべて魯の春秋と同じである。孟子は「晉ではこれを乗といい、楚では檮杌といい、魯では春秋という。その実は一つだ」と言う。乗も紀年も檮杌も春秋の別名であろう。墨子が「吾は百国の春秋を見た」と言うのも、これを指す。
  • 孔子が春秋を修めるにあたっては、周礼の旧法を観、魯史の遺文に遵い、行われた事に拠って人道に従い、敗によって罰を明らかにし、興によって功を立て、日月を借りて暦数を定め、朝聘に藉って礼楽を正した。説を微婉にし文を隠晦にして、動かしがたい言、将来の法とした。だからこそ千年を経てこの書だけが行われている。
  • 儒者の説では、春秋は事を日に繋け日を月に繋け、春といって夏を包み、秋を挙げて冬を兼ねる。年に四時があるので二つを取って書名としたのだという。ただしそれなら、晏子・虞卿・呂氏・陸賈の書は篇立てに年月が無いのに春秋と称しており、これとは別の意味があるはずである。
  • 太史公が史記を著して天子を本紀としたのは、その主旨からすれば春秋に法ったものである。以後、国史を作る者はみなこの法を用いた。ただし時代が移って体式は変わり、記す事には褒貶の言葉が乏しく、黜陟の判断も無い。司馬遷自身「故事を整理しただけだ」と言うとおりで、春秋に比べられるものではない。

左傳家

  • 起こりは左丘明である。孔子が春秋を著し、丘明が経を授かって傳を作った。傳とは「転」であり、経の主旨を転じて後人に授けるものである。あるいは「示」で、来世に伝え示すものだともいう。孔安国が尚書に注したものも傳といい、傳には訓釈の意もあるのだろう。
  • 左傳が経を釈く仕方を見ると、言葉は経文に見えて事は傳の中に詳しい。傳に無くて経にあるものも、経に欠けて傳に存するものもある。言は簡にして要、事は詳にして博である。聖人の羽翼であり、述作者の冠というべきである。
  • 孔子の没後は経傳が作られず、当時の文籍は戰國策と太史公書だけだった。晉の著作郎・樂資(魯國の人)がこの二史を追採して春秋後傳を撰した。周の貞王から左傳の魯哀公以後を継ぎ、王赧が秦に入るまで、さらに秦の文王が周を継いで二世の滅亡に終わるまでを合わせ、三十巻とした。
  • 漢代の史書は司馬遷・班固を主としたが、紀と傳が互いに出て表と志が重複し、文が煩雑で通読しにくい。孝獻帝は荀悅に命じてその書を撮り、左傳に依る編年体の漢紀三十篇を作らせた。
  • 以後、各代の国史にこの種の作がある。後漢から北齊まで、張璠・孫盛・干寶・徐賈・裴子野・吳均・何之元・王邵らの書は、春秋・紀・略・典・志と名は異なるが、おおむね左傳を的準としている。

國語家

  • 起こりもまた左丘明である。春秋の内傳(左傳)を作ったうえで、逸文を稽べ別説を纂め、周・魯・齊・晉・鄭・楚・吳・越の八国に分けた。周の穆王に始まり魯の悼公に終わる。春秋外傳として國語二十一篇にまとめられている。内傳と重出しながら少しずつ異なる箇所がある。
  • 古来の名儒である賈逵・王肅・虞翻・韋昭(韋耀)らが注釈を加えて章句を治めた。六経の流れ、三傳に次ぐものである。
  • 縦横家が現れて力戦争雄の世となり、秦が天下を兼ねるに及んで戰國策が著された。東周・西周・秦・齊・燕・楚・三晉・宋・衛・中山の十二国、三十三巻からなる。「策」というのは録するだけで序を立てないので、簡(竹簡)をそのまま名にしたのである。漢の劉向が戰國の遊士を策謀の徒としたことから戰國策と呼んだ、という説もある。
  • 孔衍は戰國策が十分でないとして、太史公の記述を引いて異同を参照し、二家を刪って一録にまとめ、春秋後語と号した。東周・西周および宋・衛・中山を除き、七国だけを残した。秦の孝公に始まり楚漢の際に終わり、春秋と同じくおよそ二百三十余年をおさめる。
  • 孔衍ははじめ春秋時國語を撰し、次いで春秋後語を撰して二書各十巻を成したが、今世に行われるのは後語だけである。その序に「左氏といえどもこれに加えるものは無い」とあり、世人は力量も徳も量らぬと咎める。ただ孔衍の意は左丘明に自らをなぞらえ、國語は春秋の傳ではないと言うにすぎない。類をもって比べるなら、それほど嗤うべきことでもあるまい。
  • 漢が統御を失い英雄が力を争った時代については、司馬彪がその行事を録して九州春秋を作った。一州を一篇とし、九巻にまとめた。その体統は近代の國語というべきものである。
  • 魏が許・洛に都し三方が鼎立し、晉が江淮に宅して四海が裂けてからは、君主は王者を号しても地は実質諸侯であった。各地の史官が国事を記すにあたり、紀傳を作る者は班固・司馬遷を模範とし、編年を作る者は荀悅・袁宏に議擬した。こうして史漢の体が大いに行われ、國語の風は衰えた。

史記家

  • 起こりは司馬遷である。五経が世に行われ百家が競い立って、事跡は錯綜し前後が食い違っていた。司馬遷は国史を集め家乗を採訪し、上は黄帝に起こり下は漢の武帝に窮まる書を作った。紀と傳で君臣を統べ、書と表で年と爵を譜し、百三十巻とした。魯史の旧名にちなんで史記と名づけた。
  • 以後、漢代の史官が続けたものはみな史記の名を用いた。東京(後漢)に至って書を著すときはなお漢紀と称した。
  • 梁の武帝は群臣に勅して、上は太初から下は齊の世までを撰させ、通史六百二十巻を成した。秦以前は史記を本とし、別に他説を採って異聞を広めた。両漢以後は当時の紀傳をそのまま録して上下を通じさせている。吳・蜀の二主はともに世家に入れ、五胡および拓跋氏は夷狄傳に列した。おおむね体は史記と同じで、違うのは表が無いことだけである。
  • その後、元魏の濟陰王・元暉業が科録二百七十卷を著した。断限は上古に起こり宋の年に終わる。編次は多く通史に倣い、行事のとくに似たものを一科にまとめたので科録と号した。
  • 本朝の顯慶年間、符璽郎の李延壽(隴西の人)が近代の諸史を抄撮し、南は宋に始まり陳に終わり、北は魏に始まり隋に終わる一百八十篇を作って南北史と号した。君臣の流例も紀傳の分類も、みな類をもって各々の本国に付けている。
  • これらはみな史記の流れである。ただし史記は疆域が広く年月が長いのに、紀と傳に分け書と表に散らしたので、家国の一政を論じても胡と越ほど隔たり、君臣の同時代を叙しても参商の星のように離れてしまう。これが体裁の欠点である。
  • また載せるところは旧記の寄せ集めが多く、雑説を採っている。読む者にとって異聞は乏しく重複は多い。これが撰録の煩わしさである。まして通史以降は蕪雑が甚だしく、学ぶ者は本書に習熟して新録を覗くのを怠るようになった。撰次してまもなく残缺が多くなり、労して功無しというべきで、述作者が深く戒めるべきところである。

漢書家

  • 起こりは班固である。司馬遷の史記は当代(武帝)で終わり、太初以後は闕けて録さない。班彪がこれを承けて後記を演べ、前篇に続けた。子の班固に至って高祖から王莽までを断限とし、十二紀・十志・八表・七十列傳の一史を成し、漢書と名づけた。
  • 昔、虞・夏の典、商・周の誥のうち孔子が撰したものはみな「書」といった。書を名とするのは古に稽える偉大な称である。創造にあたってはすべて司馬遷(子長)に準拠し、世家を立てず、書を志と改めただけである。
  • 東漢以後の作者は相次いでこの名号を襲い、変更しなかった。東觀のものを記といい、三国のものを志というくらいで、称は違っても体制は同じである。
  • 古来の史書を通観すると、尚書は周の事を記して秦繆公に終わり、春秋は魯史を述べて定公に止まる。竹書紀年は魏の亡ぶまでを下り、史記は漢の初めについて論ずるにとどまる。漢書は西都の首末を究め、劉氏の廃興を窮めて、一代を包挙して一書に撰した。言はみな精練、事は該密で、学ぶ者が尋ね究めるのに功を得やすい。古今を通じてこの道は改まっていない。
  • 以上の六家を考え、千載を商榷した。史の流品はすでに久しく廃れており、祖述すべきものは左氏と漢書の二家だけである。