新唐書卷二百二十五上 列傳第一百五十上 安祿山

安祿山、営州柳城の胡人。張守珪に見出されて節度使に累進し、玄宗・楊貴妃の寵愛を得て三道の兵権を掌握した。天宝14載(755年)に挙兵して安史の乱を起こし大燕皇帝を僭称したが、長安占領後まもなく子の安慶緒に弑殺された。

年表(4件)
  • 天宝元年742年平盧節度使となり、翌年には范陽節度使も兼ねて勢力を拡大した
  • 天宝14載755年「密詔により楊国忠を討つ」と称して范陽で挙兵した
  • 天宝15載756年「雄武皇帝」を僭称し、国号を燕とした
  • 至徳2載757年子の慶緒と側近らに刺殺された。享年50余

出自と張守珪への仕官

  • 安祿山、営州柳城の胡人、本姓は康。母は突厥の巫女で、軋犖山(突厥の戦神)に祈って身ごもったという伝説を持つ。母の再婚先の安氏に養われ「安祿山」と名乗った。忮忍で人の心情を読むことに長け、六蕃語に通じ互市郎となった。
  • 幽州節度使張守珪のもとで羊泥棒として捕らえられた際「両蕃を滅ぼしたくないのか」と大言して守珪に見込まれ、史思明とともに捉生(斥候)となった。契丹討伐で功を挙げ偏将に抜擢され、養子とされた。

玄宗への取り入りと節度使就任

  • 御史中丞張利貞への贈賄で評判を高め、営州都督・平盧軍使となった。天宝元年(742年)、平盧節度使、翌年には范陽節度使兼河北采訪使を兼ね、勢力を拡大した。契丹との戦で敗れながらも夢占いなど詭誕な言辞で言い逃れ、李林甫の蕃将重用策の恩恵を受けて寵愛を深めた。

玄宗・楊貴妃との関係

  • 愚直を装って玄宗の信を得、皇太子への非礼な態度や、楊貴妃の養子となる際に母を先に拝する蕃俗を演じるなど、巧妙に取り入った。李林甫の威に恐れをなす様も演じ、玄宗の寵愛は不動のものとなった。腹の大きさを問われ「ただ赤心のみ」と答えた逸話も伝わる。

反乱準備と挙兵

  • 表向きの恭順を装いながら、范陽北に雄武城を築き兵糧を蓄積、同羅・降奚・契丹の兵を養い、多数の将(安守忠・史思明・田承嗣ら)を配下に集めた。商人を用いた密偵網も築き、契丹諸酋を謀殺するなど残忍な行為を重ねながら勢力を拡張した。
  • 河北道采訪処置使、後に河東節度使も兼ね三道の兵権を掌握。皇太子・宰相らの警告にもかかわらず玄宗は信じず、楊国忠との対立の中、天宝14載(755年)11月、「密詔により楊国忠を討つ」と称して范陽で挙兵した。

洛陽・長安の陥落

  • 快進撃で黄河を渡り洛陽を陥落させ、封常清・高仙芝を退けた。天宝15載(756年)正月、「雄武皇帝」を僭称し国号を燕とした。常山の顏杲卿の抵抗など各地で抗戦が起きたが、哥舒翰の潼関防衛失敗を経て長安も陥落した。
  • 長安占領後は皇族・宗室を大量に殺害し、財貨を略奪。統治は苛烈を極め民心は離反した。

慶緒による弑逆

  • 祿山は晩年失明し疽を患い、側近を虐待するようになった。至徳2載(757年)正月、子の慶緒と側近厳荘、宦官李猪児が共謀し、祿山を刺殺(享年50余)。慶緒が偽って皇太子を称し即位した。