新唐書卷二百二十四下 列傳第一百四十九下 高駢

安南平定の武功

  • 高駢、字は千里、南平郡王高崇文の孫。「落雕侍御」の異名を持つ弓の名手として頭角を現し、党項討伐や河・渭二州の攻略で戦功を重ねた。咸通中、安南都護として南詔を撃破し安南を奪還、「天威道」の開通など交通整備にも功があった。

剣南西川での統治と突将の乱

  • 南詔の脅威が迫る西川節度使として着任し、南詔を威圧して和議を結ばせた。しかし軍制改革(突将の廃止・給与削減)への不満から反乱が起き、鎮圧後は密かに反乱兵を粛清するなど苛烈な措置を取った。成都城の改修(大玄城と命名)など統治面での功績もあった。

淮南での黄巣討伐と権力への固執

  • 淮南節度使として黄巣討伐で威名を馳せたが、自身の功を独占しようとして援軍を退けたことが黄巣の再興を招いた。畢師鐸の諫言も聞かず、朝廷が王鐸を都統に代えると憤慨し、上書で朝廷を非難するに至った。

呂用之の専横と高駢の孤立

  • 方士呂用之を寵用し神仙術に耽溺、軍事を委ねたため用之が実権を握った。用之は「察子」による密偵網や私兵「鏌邪軍」を組織し、淫刑重賦で人心を失わせた。諸葛殷ら腹心も同様に専横を極め、諫言する者は次々粛清された。

畢師鐸の反乱と高駢の最期

  • 呂用之に妾を辱められた畢師鐸が反乱を起こし、秦彦・張神劍・鄭漢璋らと連合。楊行密の介入も絡み揚州は激しい攻防戦の舞台となった。高駢は捕らえられ幽閉された後、秦彦・畢師鐸の命により殺害された(乾寧前後の混乱期)。呂用之も後に楊行密により処刑された。
  • 揚州は師鐸・行密・孫儒らの相次ぐ争奪戦で荒廃し、天下随一の富裕の地が焼き尽くされた。