新唐書卷二百十五下 列傳第一百四十 突厥下
毗伽可汗――即位と暾欲谷の輔佐
- 毗伽可汗默棘連は当初「小殺」と呼ばれ、仁愛で友愛に篤く、自ら即位の功は自分にないとして弟の闕特勒に位を譲ろうとしたが特勒が固辞したため開元四年(716年)に即位した。特勒を左賢王として兵権を委ねた。
- 默啜の死後、闕特勒が反対派の重臣をことごとく殺した中、默啜の可敦であった暾欲谷の娘婆匐だけが助命され、暾欲谷自身も一時追放されていたが、突騎施蘇禄が自立して部族が動揺する中、默棘連は七十余歳の暾欲谷を再び招いて国政を諮問した。
- 暾欲谷は「唐の天子は英武で人心は和し年も豊作、いま兵を挙げるべきでない」「城郭に定住すれば一敗地に塗れれば終わる、仏教・道教は民を弱くする」などと諫め、默棘連はこれに従い、遊牧と機動戦を基本とする国是を守った。
- 開元八年(720年)頃、唐は拔悉密・堅昆・契丹・奚など諸族と王晙率いる大軍で突厥討伐を計画したが、暾欲谷の巧みな戦略(拔悉密のみを先に誘い出し撃破する)で唐軍の連携を崩し、涼州でも大寒を利用して唐軍(楊敬述配下)を破るなど、突厥は默啜以来の勢力を維持した。
- その後、毗伽可汗は臣従を願い出て婚姻も求めたが唐は許さず、開元十三年(725年)の玄宗封禅に際し使者阿史德頡利発を従わせるなど関係修復に努めた。開元十九年(731年)闕特勒が死ぬと唐は張去逸・呂向を弔問に遣わし碑文と廟を建てさせた。
毗伽可汗の死と後継
- 毗伽可汗は再三婚姻を求め唐もこれを許す方向に傾いたが、大臣梅録啜に毒を盛られ、瀕死の中で梅録啜を誅殺してからまもなく死んだ。玄宗は宗正卿李佺を弔問に遣わし廟を建てさせた。国人は子を伊然可汗に立てた。
- 伊然可汗は八年在位して死に、弟が星伽骨咄祿可汗(登利可汗)として立った。登利可汗は幼く、母婆匐が寵臣飫斯達幹と密通して政に関与し、部族の対立(左右殺の抗争)を招き、最終的に叔父の左殺に殺された。左殺(判闕特勒)は毗伽可汗の子を立てたが骨咄葉護に殺され、その弟も殺されて葉護が自立するなど混乱が続いた。
- 天宝初、回紇・葛邏禄・拔悉密が葉護を攻め殺し拔悉密の長を頡跌伊施可汗に立てたが、烏蘇米施可汗(判闕特勒の子)を経て天宝三載(744年)、拔悉密らが烏蘇米施を殺しその弟白眉可汗も翌年殺された。国人は拔悉密の酋を可汗に立てたが、朔方節度使王忠嗣の攻勢もあり、最終的に回紇の骨力裴羅が骨咄祿毗伽闕可汗として国を定め、突厥(東突厥)は北魏の大統年間の建国からここに滅亡した。旧突厥の地はことごとく回紇に帰した。
西突厥の起源と初期の分裂
- 西突厥は訥都陸の孫吐務(大葉護)の子孫で、長子土門(伊利可汗)の弟室点蜜(瑟帝米)の子孫が達頭可汗(歩迦可汗)を称し東突厥と烏孫故地を分けた。京師の北七千里、焉耆から南北にそれぞれ庭を置いた。
- 東突厥木桿可汗の死後、弟佗鉢可汗が立ち、佗鉢の子庵羅を経て沙鉢略可汗(攝図)が立つ過程で、大邏便が阿波可汗として西面可汗の達頭の支援を受けたが敗れた。達頭は隋の圧力で吐谷渾に敗走し、その子孫泥利可汗・泥橛処羅可汗(曷薩那可汗)は隋に臣従し宗女を娶ったが、唐初、李軌との抗争に敗れ滅んだ。
- 曷薩那の後、達頭の孫射匱可汗が自立し玉門以西を服属させ東突厥と対抗、その弟統葉護可汗は鉄勒を併合しペルシャ・罽賓を服属させる強盛を誇り、頡利討伐で唐と結ぼうとしたが、頡利の妨害と国内の離反(諸父莫賀咄の反乱)で殺された。
西突厥の分裂抗争
- 莫賀咄(屈利俟毗可汗)の即位後、国は分裂し、弩失畢部は泥孰莫賀設を推したが辞退、統葉護可汗の子咥力特勒が乙毗鉢羅肆葉護可汗として並立した。貞観四年(630年)、太宗は俟毗可汗の婚姻要求を「突厥はまだ君臣が定まっていない」として拒否、俟毗は衰えて金山に走り泥孰に殺された。
- 肆葉護可汗も猜疑心から功臣乙利を族滅するなど失政を重ね、泥孰(後の咄陸可汗)に取って代わられた。咄陸可汗の死後、弟同俄設(沙鉢羅咥利失可汗)が立ち国を十部(十設・十箭、左右の咄陸・弩失畢)に分けたが、統吐屯の反乱で咥利失は焉耆に逃れ、西部は乙毗咄陸可汗として自立、伊列河を境に東西に分裂した。
- 咥利失の子乙屈利失乙毗可汗が短命で死ぬと弩失畢は畢賀咄葉護(乙毗沙鉢羅葉護可汗)を立てたが、咄陸可汗(乙毗咄陸可汗)との抗争が続き、安西都護郭孝恪が伊州・天山方面で咄陸軍を破るなどした。咄陸可汗が専横で人心を失うと弩失畢は乙屈利失乙毗可汗の子(乙毗射匱可汗)を新たに擁立、咄陸は吐火羅に逃れた。
賀魯の反乱と西突厥の滅亡
- 阿史那賀魯は室点蜜可汗五世の孫で、咄陸可汗の下で葉護となり多邏斯川に拠っていたが、咄陸の没落に伴い唐に帰順、瑤池都督となった。太宗崩御に乗じ西州・庭州を狙う動きを見せ、高宗の代に子咥運を宿衛に送るなど懐柔を装いつつ千泉を拠点に沙鉢羅可汗を自称、咄陸・弩失畢十姓を統一した。
- 庭州を攻めるなどしたため、唐は梁建方・契苾何力らを派遣し攻めたが決定的打撃を与えられず、駱弘義の献策(賀魯本体への集中攻撃)も一部生かされなかった。永徽四年(653年)以降、程知節・蘇定方らの遠征で処月・処蜜・処木昆を撃破。
- 顕慶年間(656-661年)、蘇定方を伊麗道行軍大総管として本格的討伐を行い、曳咥河・鷹娑川・金牙山などで賀魯軍を大破、賀魯は伊麗水を渡って逃れたが、石国の蘇咄城で捕らえられ、唐は昭陵に献じて赦した(西域平定)。
- 西突厥の地は州県に編成され、阿史那弥射(興昔亡可汗・昆陵都護、五咄陸部を統べる)と阿史那歩真(継往絶可汗・濛池都護、五弩失畢部を統べる)に分割統治させた。しかし両者は不和で、龍朔二年(662年)蘇海政の軍中で歩真の讒言により弥射が誅殺されるなど内紛が続いた。
西突厥の遺民統治とその後
- 咸亨二年(671年)、阿史那都支が十姓可汗を自称し吐蕃と結んで安西を脅かしたが、儀鳳年間、裴行儉が計略で捕らえた(調露元年=679年)。弥射の子元慶、歩真の子斛瑟羅が父の称号を継いだが、元慶は来俊臣に誣告され誅殺され、その子は振州に流された。
- 長安年間、阿史那献が興昔亡可汗を継ぎ北庭大都護となり、十姓部落の都担の反乱を鎮圧するなどしたが、突騎施の台頭に押され最終的に長安で死んだ。阿史那懐道の子昕が最後の十姓可汗となったが突騎施の莫賀達幹に殺され、西突厥はここに滅亡した。
突騎施烏質勒・娑葛――碎葉の新興勢力
- 突騎施烏質勒は西突厥の別部、斛瑟羅配下の莫賀達幹であったが、斛瑟羅の失政に乗じ人望を集め、二十都督を置いて碎葉を大牙、弓月・伊麗を小牙とする新勢力を築いた。聖歷二年(699年)子の遮弩を入朝させ、神龍中、懐徳郡王に封じられた。
- 烏質勒の死後、子の娑葛が左驍衛大将軍として爵位を継ぎ勝兵三十万を擁したが、部将厥啜忠節との対立から宰相宗楚客の介入を招き、馮嘉賓が殺害される事件に発展した。娑葛は弟遮弩と不和になり、遮弩は默啜に走って唐討伐の道案内を申し出たが、默啜は結局娑葛・遮弩双方を殺した。
突騎施蘇祿――再興と衰退
- 突騎施の別種、車鼻施啜蘇祿が余衆を糾合し可汗を自称、開元五年(717年)入朝、右武衛大将軍・突騎施都督に任じられた。忠順可汗の号を得て阿史那懐道の娘(交河公主)を娶るなど唐と姻戚関係を結んだが、安西都護杜暹との軋轢から吐蕃と結び安西城を包囲するなど不安定な関係が続いた。
- 晩年は財政窮乏と半身不随の病により部下の信望を失い、莫賀達幹・都摩支ら黄姓(娑葛系)と黒姓(蘇禄系)の対立が激化、最終的に莫賀達幹・都摩支に殺された。都摩支は蘇禄の子吐火仙骨啜を可汗に立てたが、磧西節度使蓋嘉運の討伐で吐火仙・爾微特勒らが捕らえられ、突騎施は事実上崩壊した。
突騎施の衰亡
- 唐は阿史那懐道の子昕を十姓可汗に立てたが莫賀達幹の反発を招き、後任の莫賀咄も安西節度使夫蒙霊詧に討たれるなど混乱が続いた。天宝元年(742年)以降、黒姓の伊里底蜜施骨咄祿毗伽、登里伊羅蜜施らが相次いで可汗を称し唐から冊立を受けたが、安史の乱後は唐の統制が及ばず黄姓・黒姓が互いに争い、大暦以後は葛邏禄の勢力に押され、その残部は回鶻に服属した。
史論
贊にいう。隋末の乱世、国内を疲弊させて外征を行った結果、生者は道路に疲れ死者は原野に晒され、天下の盗賊が共に隋を滅ぼした。この時、四夷が侵し中国は衰えたが、突厥が最強で控弦百万を号し、中国で職を失った者たちも多くこれに従った。頡利は自らを古今無双の強国と自任した。高祖は即位当初、和議を結びつつしばしば出兵の助けを借りたため、贈り物は計り知れぬほどであった。しかし虜は利を見て動き、賊とも通じて略奪を働いたため、遂に国を挙げて侵入し渭橋に迫り、騎兵の砂塵が長安を覆った。太宗は自ら兵を率いて公然と責め、密かに離間策を用いて虜の勢いをまず内側から崩した。三年を経ずして頡利を捕らえて宮門に献じ、電光石火の如くその国を廃墟とした。『詩経』『書経』の昔から、暴を討ち乱を治めることがこれほど神速であった例はなく、秦漢の事績もこれに比べれば見劣りする。太宗はたびたび軍を興しても功を誇らず、敵情を読み違えず、将才を得ればその功を必ず成し遂げた。まさに黄帝の用兵に等しいと言えよう。突厥は徳を失って有道の国に抗したがゆえに、盛んになりかけたところから急速に衰えた。国の盛衰は天運に属するとはいえ、その滅亡には確かな理由があったのである。