軍容使の専横
- 瀘州瀘川の人。天寶末、品官として黄門に仕え、至德初、李光進軍の監軍。京師平定後、三宮検責使から左監門衛将軍・知内侍省事。九節度の相州包囲戦で観軍容・宣慰・処置使(この職名はここに始まる)。史思明の攻勢では陝州で兵を統率、洛陽平定後は開府儀同三司・馮翊郡公。代宗の東幸に際し衛兵を率いて迎え、天下観軍容・宣慰・処置使として神策軍を専領した。
- 郭子儀に対する讒言(相州敗戦を機に)、代宗の東幸を主張したが百僚と郭子儀の反対で阻止された逸話、国子監判事として学問を装う後進を集めた逸話(永泰中、鴻臚・禮賓・内飛龍・閑廐使を兼ね鄭国公)などが記される。
- 元載・王縉ら宰相との対立が深まり、群臣の前で宰相を貶める発言をしたが、相里造の反論に沈黙した。「南衙(朝廷)が我を害そうとしている」との言葉も伝わる。
- 賜された別荘を仏寺に改め章敬太后の菩提を弔い、旧宮殿・華清宮の材を流用するなど浪費を重ねた。郭子儀の祖先の墓を密かに暴かせた事件、養子令徽の紫衣騒動なども玄宗の不興を買った。
- 元載は崔昭を京兆尹に取り立て皇甫温・周皓を味方につけ、密かに帝の許可を得て誅殺計画を進めた。寒食の宴の後、朝恩は禁中に留められ、皓らに縊殺された。享年49。表向きは自殺として処理され、実封を増やして体面が保たれた。
附 竇文場・霍仙鳴
- ともに東宮に仕え徳宗の代に台頭した。魚朝恩死後、宦官が兵権を離れていたが、涇原の乱で白志貞が信を失う中、竇文場らが親衛の中核として徳宗を守り、興元初、左右神策軍の監督を任された(神策軍の軍額はここに始まる)。
- 興元帰還後、徳宗が宿将を疑い両軍の統率を文場・仙鳴に委ねた。竇・霍の権勢は朝廷を圧し、藩鎮の任免にまで及んだ。護軍中尉・中護軍の制度(左右各二員)が創設され、文場・仙鳴が初代の中尉となった。文場は驃騎大将軍に至り、老いて致仕し没した。
- 後任の楊志廉・孫栄義も権を弄び竇・霍と並ぶほどであったが、晩年の徳宗は民間の風聞に神経を尖らせるようになった。