新唐書卷二百六 列傳第一百三十一 楊國忠

安史の乱の遠因

  • 太真妃(楊貴妃)の従祖兄、実は張易之の子とされる。若くして放蕩で親族に軽んじられたが、蜀軍に従い新都尉となり、蜀の豪商鮮于仲通の援助を得た。從父玄琰の死後、その家を世話するうちに妹(後の虢国夫人)と通じ、財を蕩尽して逃げた過去がある。
  • 剣南節度使章仇兼瓊が李林甫との不和から楊氏との結びつきを求め、国忠を推官に取り立てたのを機に長安に出て諸楊氏に取り入り、虢国夫人との淫行を続けながら玄宗に「度支郎の才」と評され監察御史に累遷した。
  • 李林甫の韋堅獄などに利用され、皇太子の失脚を狙う密告・拷問を担当。虢国夫人を通じて玄宗の意向を探る術に長け、天寶七載、給事中兼御史中丞・専判度支。三妹が国夫人に封じられ、家門が栄えた。天下の富を京師に集める財政策を進言し、庫の充実を示して玄宗に賞賛された。
  • 楊慎矜・王鉷を追い落とし、御史中丞宋渾らを排して李林甫と対立、南詔討伐の失敗(瀘川での大敗)を鮮于仲通のために隠蔽して劍南節度使を兼ね、林甫の失脚を後押しした。林甫死の床で後事を託されたが疑い、右相・文部尚書に就任、林甫の罪を暴いて家を破滅させた。魏国公に封ぜられたが辞退し衛国公に改めた。
  • 官吏登用制度を改革し(「押例」)迅速化した一方、恣意的な人事や虢国夫人邸での公然たる乱行、選考の私物化で士人の恥辱を招いた。四十余の使を兼任し実務は乱れ、賄賂が横行した。房琯の水害報告を握りつぶすなど農政も歪めた。
  • 安禄山との対立が決定的となり、劍南への募兵で貧民を騙して従軍させる非道、南詔再征(李宓の大敗)で二十万の兵を失う失策もあった。安禄山の反乱兆候を察知し先んじて攻撃を仕掛けようとしたが、逆に禄山の挙兵を早める結果となった。哥舒潼関籠城策を疑い出撃を強要し大敗を招いた。
  • 玄宗の蜀行幸に随行中、馬嵬駅で禁軍将士の怒りを買い、吐蕃使者への疑惑を口実に殺害され、肉を貪り食われるほど憎まれた。四子(暄・出・曉・晞)と妻裴柔も殺害された。
  • 本名は釗、図讖「卯金刀」を忌んで玄宗が改名させた。