新唐書卷二百四 列傳第一百二十九 嚴善思

大獄の理と乾陵合葬論争

  • 名は譔、同州朝邑の人、字で行われた。父の延は裴玄証・李貞・蔡靜らと図讖に通じた。高宗の泰山封禅で銷聲幽藪科に及第、襄陽尉。喪に服し十年隠棲した。
  • 武后朝、監察御史兼右拾遺内供奉として天下の政治を論じた。酷吏による大獄が横行する中、詳審使として八百余人を救い、千余の氏族の連座を解いた。来俊臣らに憎まれ交阯に流されたが五年後に帰還、李淳風没後の太史令として占候を担った。聖歷二年、熒惑が輿鬼星に入った兆を「大臣に及ぶ」と占い、王及善の死を的中させた。長安中、熒惑が月に入り天関を犯した兆から張柬之らの二張誅殺を予言した。給事中に遷った。
  • 武后崩御後、乾陵合葬の議に強く反対した。「尊者が先に葬られた場合、卑者は入るべきでない。墓を開くのは卑が尊を動かすことで術家の忌むところ。魏晋以来の合葬の例と漢の別陵の例を比較し、漢は四百年続いたが魏晋は短命だった」として、別に吉地を選ぶよう建言したが、中宗は容れなかった(本文に長文引用)。
  • 神龍中、武后の喪明けの音楽再開を巡り「礼は陰、楽は陽、喪礼と音楽の均衡が孝道の要諦」として太常の奏を支持する上奏を行い、容れられた。禮部侍郎に遷ったが韋皇后の専権を憂い汝州刺史を求めた。姚崇に「相王(睿宗)に瑞兆あり、よく護れ」と語った逸話も伝わる。
  • 譙王重福の反乱に連座し関通の罪に問われたが、宋璟・李邕・韓思復の弁護で靜州流罪に減刑された。かつて劉允濟の冤罪を力説して救った恩を語らず、王本立に「祁奚の義」と評された逸話も伝わる。赦されて帰還、開元十六年に没した。子の向は乾元中に鳳翔尹となり、三代とも85歳まで生きたという。