新唐書卷二百三 列傳第一百二十八 盧綸

盧綸

  • 字は允言、河中蒲の人。天寶の乱を避け鄱陽に寓した。大暦初、進士に何度も落第したが、元載が詩文を取り立て閿郷尉に補された。監察御史に累遷したが病と称して辞した。王縉との交わりで長く不遇だったが、渾瑊の河中節度で元帥判官、検校戶部郎中に累進。舅の韋渠牟が徳宗に寵愛されたため才を推挙され、詩の唱和を任された。
  • 「大暦十才子」の一人として吉中孚・韓翃・銭起・司空曙・苗発・崔峒・耿湋・夏侯審・李端とともに詩名を並べた。憲宗が張仲素に遺文の収集を命じ、文宗も詩を愛し宰相に子孫の消息を尋ねた際、李徳裕が四子(簡能・簡辭・弘止・簡求、みな進士)の名を答え、詩五百篇が献上された。

附 吉中孚

  • 鄱陽の人。戶部侍郎に至った。

附 韓翃

  • 字は君平、南陽の人。侯希逸の淄青幕府、李勉の宣武幕府に仕えた。駕部郎中知制誥。同名の刺史韓翃と紛らわしく、徳宗が「詩人の韓翃を」と指名した逸話が伝わる。中書舍人で終わった。

附 銭起

  • 呉興の人。天寶中に進士、郎士元と並び称され「前に沈宋、後に銭郎」と評された。考功郎中で終わった。

附 司空曙

  • 字は文初、廣平の人。剣南で韋皋に従い、虞部郎中で終わった。

附 苗発

  • 晉卿の子、都官員外郎で終わった。崔峒は右補闕、耿湋は右拾遺、夏侯審は侍御史に至った。

附 李端

  • 趙州の人。郭曖が昇平公主に尚し、才思ある公主が文士を招いた際、李端らは曖の交遊に加わった。曖の昇進祝賀の宴で李端が最も工みな詩を作り、銭起の挑発にも即座に応じて客を感嘆させ、公主から帛を賜った逸話が伝わる。晩年病により江南に移り杭州司馬で終わった。