隠逸の詩人
- 字は浩然、襄州襄陽の人。節義を好み人の患難を助けた。鹿門山に隠棲し四十歳で初めて京師に遊学、太学での詩会で満座を驚嘆させた。張九齢・王維に重んじられた。
- 王維が私邸に招いた際、玄宗が突然訪れ床下に隠れたが、王維が実を告げると「その人の名は聞くが会ったことがない、何を恐れるのか」と喜び召し出された逸話が伝わる。玄宗が自作の詩を問うと「不才明主棄」の句を誦し、「卿が仕官を求めぬのに朕が棄てたと言うのか」と不興を買い放還された。
- 採訪使韓朝宗が推挙しようとしたが、旧友との酒宴を優先し約束をすっぽかし怒りを買った。張九齢の荊州幕府に招かれたが府の廃止で終わった。開元末、背中の腫瘍で没した。
- 没後、節度使樊澤が荒れた墓を再建した経緯(符載の牋文が引用される)、王維が刺史亭に浩然の画像を描き「浩然亭」と呼ばれ、後に「孟亭」と改称された逸話も伝わる。
附 王昌齡
- 字は少伯、江寧の人。進士及第、秘書郎。宏辭にも中り汜水尉。素行の悪さで龍標尉に貶された。乱世に帰郷する途中、刺史閭丘曉に殺された。張鎬が河南で兵を集めた際、遅参した曉を処刑しようとしたところ「親がいるので命を乞う」と言ったが、鎬は「王昌齢の親は誰が養うのか」と一蹴した逸話が伝わる。詩は緻密で清らかとされ「王江寧」と称された。
附 崔顥
- 進士及第だが素行に難があった。賭博・飲酒を好み、美貌の妻を娶っては次々離縁し四、五度結婚した。司勲員外郎で終わった。李邕が名声を聞いて招いたが、献じた詩の冒頭「十五嫁王昌」に「無礼な小僧だ」と怒り面会せず帰らせた逸話が伝わる。