新唐書卷二百二 列傳第一百二十七 孫逖

孫逖

  • 博州武水の人、北魏光禄大夫孫惠蔚の末裔。父の嘉之は孤児として外家に依り洛陽で書を献じたが返答なく、襄邑令で終わった。
  • 逖は幼時から文才を発揮し、雍州長史崔日用に土火炉の詩を即席で作って認められた。手筆俊抜・哲人奇士・隱淪屠釣・文藻宏麗など諸科に挙げられ、開元十年には賢良方正にも及第。玄宗に洛城門で謁見し左拾遺。張説の子均・垍が拝謁するほど重んじられ、李邕も自作を示した。
  • 太原の李暠幕下を経て起居舍人から集賢院修撰。宰相蕭嵩主催の詩宴で『天成』等八篇の序を任され、考功員外郎として顔真卿・李華・蕭穎士・趙驊ら名士を抜擢した。父嘉之の官位昇進を願い出て自ら外官に降ることを求めた孝行の逸話も伝わる。中書舍人として蘇頲・齊浣・蘇晉・賈曾・韓休・許景先らとともに詔誥の代言を務め、張九齢も一字も直せぬほど精密であった。晩年は病により少詹事に転じ、上元中に没し、尚書右僕射・諡は文を追贈された。

子 成

  • 字は思退、洛陽・長安令を歴任。兄宿の病で無断帰省したが代宗に許された。倉部郎中・京兆少尹、信州刺史として大旱に安値で穀を売り民を救った功で戶数が増加し褒賞された。蘇州・桂管観察使を歴任し没した。経術に通じ、期喪の礼を厳格に守った逸話も伝わる。子公器も邕管経略使に至った。

曾孫 簡

  • 公器の子、字は樞中。元和初、進士及第。左司・吏部郎中、諫議大夫知制誥から中書舎人。祖父逖、父宿に続き三世が制誥を掌った。会昌初、尚書左丞として品階と兼官の序列の混乱を正す長文の建言を行い(本文中に詳述)、武宗はこれを容れた。河中・興元・宣武節度使を歴任し検校尚書右僕射・東都留守。弟の范も淄青節度使となり両家は栄えた。