新唐書卷二百二 列傳第一百二十七 呂向

連錦書と諫言

  • 字は子回、出自不詳(涇州の人とも)。孤児として外祖母に陸渾山で養われ、草隷に長じ一筆で百字を書く「連錦書」で知られた。薬を売りながら独学で古今に通じた。
  • 開元十年、翰林に召され集賢院校理を兼ね太子・諸王に文章を教えた。玄宗が天下の美女を後宮に集める「花鳥使」の慣行を『美人賦』で諷諫し左拾遺、狩猟の過度を詩で諫めて左補闕に進んだ。西嶽の石碑に用いる鐫勒使を務めた。
  • 東巡に随行した際、突厥の酋長を仗内に入れ射猟させることを狎昵が過ぎると諫めた上言が引用される。主客郎中として皇太子に専侍した。
  • 幼時に父岌が行方不明となり母も早世、失われた墓所を巫者に探させて招魂合葬した。後年父が生存していると聞き探索を続け、道で偶然出会えた逸話が伝わり、玄宗も感嘆して父に朝散大夫を授け楽工を賜った。中書舍人・工部侍郎を歴任し没した。李善注『文選』を繁瑣として呂延済・劉良・張銑・李周翰らと『五臣注』を編んだ。