新唐書卷二百二 列傳第一百二十七 宋之問

才と汚名

  • 字は延清、一名少連、汾州の人。父の令文は高宗朝の東台詳正学士。武后に召され楊炯とともに習藝館に直し、尚方監丞・左奉宸内供奉に累遷。洛陽龍門の詩会で東方虬の詩に賜られた錦袍を、後から献じた自作の詩の出来で武后から奪い取った逸話が伝わる。
  • 張易之への阿附:閻朝隱・沈佺期・劉允濟とともに易之に媚び、易之の詩作の多くを代作、溺器を捧げるまでした。易之敗死後、瀧州に流されたが逃亡して張仲之の家に匿われ、武三思復権の機に、張仲之・王同皎らの三思暗殺計画を密告して鴻臚主簿に取り立てられ、天下に醜聞として知られた。
  • 景龍中、考功員外郎として太平公主に媚び、安楽公主の権勢が盛んになると転じてそちらに阿附したため太平公主に深く憎まれ、貢挙の不正が発覚し汴州長史・越州長史に左遷された。剡溪の山水を巡り詩を作り、京師で流布した。
  • 睿宗即位後、獪険な性格を理由に欽州流罪、さらに嶺南で賜死となった。使者に妻子との別れを願ったが冉祖雍に「共に国家に背いた罪、なぜ躊躇するのか」と叱責され、飲食沐浴の後に死んだ。祖雍もまた江夏王道宗の甥で進士出身、名士だった。
  • 詩律論:魏晋以来の詩律は沈約・庾信を経て、之問・佺期に至って対句が精密になり「沈宋」と称された。「前に蘇武・李陵、後に沈宋」という評もある。
  • 父令文は文・書・力の「三絶」と称された。弟の之悌は勇猛で知られ(剣南節度使・太原尹、蠻族討伐の逸話)、之愻は草隷に優れ連州参軍として婢に歌を教えた。