新唐書卷二百 列傳第一百二十五 許康佐
許康佐
- 貞元中、進士・宏辭に連中した。家が貧しく母が老いていたため知院官を求め、不遇と嗤われたが、母の喪が明けても辟命に応じず、親のための処世と分かって名声を得た。
- 侍御史、のち中書舎人・翰林侍講学士として王起とともに文宗の寵遇を得た。文宗が『春秋』の「閽弑吳子余祭」の句を問うた際、宦官の勢威を憚って答えなかったが、後に李訓が「刑臣を近づけぬための戒め」と答え、帝が「刑臣を近づけすぎた」と述懐した逸話がある。許康佐は帝の意図を察して病と称し兵部侍郎に転出。禮部尚書で没し、吏部尚書を追贈、諡は懿。弟堯佐も進士に及第し、諫議大夫に至った。